2021年9月30日木曜日
9月を振り返って
2021年9月29日水曜日
コンシュ「哲学とその向こう側」(15)
ソクラテスがアテナイの通りや広場や公園を闊歩し、商人のカウンターの近くに立ち、店に入り、毎回、市民や外国人に「兄のように語り掛け」、彼らの質問に答え、あるいはまた彼らに質問し、問いから問いへと行きながら彼ら自身をより良くするために自分自身を知るように導くようにするのは、ソクラテスが彼らを愛していたからである
真の「隣人愛」以外の何物でもないソクラテス的愛で愛すること
それはより良くしたいということである
自分自身のことは気に留めず、仲間の市民をより良くすることだけを気に掛け、ソクラテスはアテナイの人々の中で一日を過ごす
30年の間、彼は彼らを愛することだけをやり続けた
彼が自身の人生に目をやった時に生まれる充足感はそこから来るのである
そこからまた、死の瞬間の充足感も生まれるのである
「クリトンよ、我々はアスクレピオスに一羽の雄鶏の借りがある」がソクラテスの最後の言葉であった
彼は一人ではなく、正真正銘の子、彼の魂の子に囲まれて死ぬのだから、そして彼は彼らの中で生き続けるのだから、彼は死を解放し、癒したのである
2021年9月28日火曜日
コンシュ「哲学とその向こう側」(14)
2021年9月25日土曜日
これまでの蓄積を篩にかけ、地盤整備をする
2021年9月24日金曜日
コンシュ「哲学とその向こう側」(13)
2021年9月23日木曜日
コンシュ「哲学とその向こう側」(12)
2021年9月22日水曜日
コンシュ「哲学とその向こう側」(11)
真のギリシアの哲学者は、ソクラテス以前の哲学者である
そしてニーチェは序列を付けるポーズで、ソクラテス以前の哲学者を彼らの後に来る者より必然的に優れていると言う
彼らはすべて、人々や習慣から離れて生きる秀でた人たちである。成熟し、陰鬱になるくらい重々しく、ゆっくりものを見る視点を持ち、政治や外交に暗いということも全くない。彼らは賢者の前に「ものこと」のすべての重大な概念を発見し、これらの重大な概念を表現し、そしてそれらを体系に還元する。この突然の原型の増大、哲学的理想のすべての偉大な可能性を完全なまでに作り上げるこの無意識のやり方より高度なギリシア精神を示すものは何もない。
ところで、ニーチェはヘラクレイトスに傾いており、こう言っている
わたしが善悪を超えた神の遊びとしてこの世界を思い描く時、ヘラクレイトスがわたしの先駆者である
ヘルマン・ディールス版の断片52を思い起こしてみる
時間はチェスの駒を動かして遊ぶ子供である。子供の王国なのである
しかし、「在る」ことを前に初めて驚いたのはパルメニデスである
ヘラクレイトスが「哲学の正真正銘の困惑」に他ならない「弁証法の方向への第一歩」を記した以上、ハイデッガーもまた、「より深く、より本質的である」と判断してパルメニデスに傾いている
このように、振子はヘラクレイトスとパルメニデスの間を揺れ動いており、それは哲学が続く限り続くだろう
2021年9月21日火曜日
コンシュ「哲学とその向こう側」(10)
2021年9月20日月曜日
秋の入口の感慨
今日は快晴で非常に気持ちがよい
庭には薄紫の花が一面に広がっている
秋の花なのだろう
去年はこの景色に気付いていたのだろうか
直ぐには思い出せない
それにしても、花の命は短くて、とはよく言ったものだ
昨日まで咲いていたと思った花が今日には消えている
あっという間である
これは花に限らず、いのちというものの宿命なのかもしれない
いのちの本質は儚いもの、あっけないものなのだ
秋の入口の感慨だろうか
2021年9月19日日曜日
コンシュ「哲学とその向こう側」(9)
2021年9月18日土曜日
コンシュ「哲学とその向こう側」(8)
2021年9月17日金曜日
コンシュ「哲学とその向こう側」(7)
わたしは常にわたしのすべての人生、わたしという人間のすべてをわたしの著作の中に入れてきた
2021年9月16日木曜日
コンシュ「哲学とその向こう側」(6)
我々は宗教が行われている国で出会った・・・
我々はペリゴール人あるいはドイツ人であるのと同様にキリスト教徒である
我々は信仰を放棄することはないだろう
なぜなら、他のものを持つことができないからだ
しかし、伝統によって我々の中に刻まれている出来合いの考え方以外の土の上に自らが立つべきである
ヘルダーリンのエンペドクレスは、同胞に宛てられた失われた手紙として、しかしそれが哲学者であることを望んでいる人に宛てられたのなら相応しいものとして、同胞に呼びかける
この大胆さを持て!
あなたが伝統の中で受け取ったもの、あなた自身で獲得したもの、あなたの父があなたに語ったこと、あなたに教えたこと、法律や習慣や昔からの神々の名前、これらすべてを勇気をもって忘れよ
そして赤ん坊のように、素晴らしい自然に向けてあなたの目を上げるのだ
最後の言葉を横に置いておこう
心の障害物から視野を解放し、世界や自然を初めて見るようにしなければならないという考えを覚えておこう
こうして哲学の出発点に辿り着くのである
それが驚きだ
ここで可能なことは同胞間の対話ではないが、他の対話である
誤った証拠と集団的な強迫観念から解放されたすべての人、すなわち哲学者との対話である
なぜなら、哲学者は唯一の普遍的な社会を作るからである
そこで彼らは自分自身の同胞よりもお互いに近くにいるのである
確かに、わたしの村にいる受け入れられた考えだけで満足し、最高の喜びが解禁日に漁に行くことであり、日曜の試合で喝采を送ることであるすべての人より、わたしはモンテーニュをより近くに感じる
2021年9月15日水曜日
コンシュ「哲学とその向こう側」(5)
持ち合わせていない知を自分のものであると主張するのでなければ、死を恐れるとは、実際のところ、どういうことなのか
知らないことを知っていると信じることではないのか
なぜなら、結局のところ、死とは何かも、それが最も誠実な人にとって偶然でないかどうかも誰も知らないからである
しかし、あたかも死が最大の不幸であることを知っているかのように、死を恐れるのである
死が何を意味しているのか我々は知らない
生きているのか、いないのか
生命の炎が消えるのか、あるいは新しいものと入れ替わるのか
しかし、死とは何かを知らないのであれば、我々は人間とは何かも知らないのである
人間とは何であり得るのだろうか
同様に、人間は何をして何に耐えるのが相応しいのだろうか
誰がそれを他のものと区別するのだろうか
プラトンは我々に言う
「人生を哲学して過ごしている人が求めているもの」がそれである
しかし、人間の科学、起こり得る人間の運命に関する知はない
わたしは常に理解しよう、自分自身を理解しようとしてきたと言った
何よりもまず、「何を望むことができるのか」という問いに答えることができるように
しかしそれに対して、知識である答えはない
信念以外の答えはないのである
2021年9月14日火曜日
日仏の移動を続ける
2021年9月13日月曜日
コンシュ「哲学とその向こう側」(4)
2021年9月12日日曜日
コンシュ「哲学とその向こう側」(3)
2021年9月11日土曜日
コンシュ「哲学とその向こう側」(2)
2021年9月10日金曜日
コンシュ「哲学とその向こう側」(1)
哲学とは、その存在自体においてギリシア的なものである
哲学とは、まず何よりも、ギリシアの「現存在」(Dasein)ーー文字通り、ギリシア的世界における在り方ーーを決めている何かである
2021年9月9日木曜日
日仏の生活を統合できるか
2021年9月8日水曜日
コンシュ「懐疑主義と哲学の意味」(27)
我々は、どこに行くのか、何に向かうのかも知らず、しかしとにかく、どこに行くべきでないのか、どの道が我々のものでないのかは知りながら、我々自身の奥にうしろに進んだのである
2021年9月7日火曜日
コンシュ「懐疑主義と哲学の意味」(26)
あなたの疑いや困惑は、ここから来ているあれほど美しく独創的で、その上、老齢にあってもその体を飾っていたマリー・テレーズの魂しかあなたは受け入れることができないこと、そしてその魂が消滅するかもしれないことから
2021年9月6日月曜日
コンシュ「懐疑主義と哲学の意味」(25)
2021年9月5日日曜日
コンシュ「懐疑主義と哲学の意味」(24)
2021年9月4日土曜日
コンシュ「懐疑主義と哲学の意味」(23)
人間や魂の間には多くの違いがある
プルタルコスは、動物と人間に見られる獣性の間には、質の問題、魂の質の問題と理解することにして、人間の間ほど大きな違いは見られないと言った
ところで、モンテーニュはこう言った
「わたしはプルタルコスを高く評価し、この人とあの人の間の方が動物と人間の間より距離があると言いたい」
パスカルの観察によれば、「普通の人は人間の間に違いを見ない」が、才気煥発な人の目には、人間の違いは非常に大きい
なぜなら、人間によって、美と醜、高貴と下品、繊細と卑俗の違いは極端にまで行くからである
ペリクレスの顧問であった音楽家ダモンは、素晴らしい魂は高貴で美しいものを愛するということによって識別されると言っている
そのような魂にわたしは偶然にも出会った
『わたしのこれまでの人生』で書いたマリー・テレーズがこの世界とそこで生きているものを観察し、眺めるやり方は、いつも美をわたしに示し、明らかにしてくれた
いま、彼女の眼差しが懐かしい
それがなければ、わたしは最早見ることができないのである
2021年9月3日金曜日
コンシュ「懐疑主義と哲学の意味」(22)
ある人たちは、陰鬱な地上にある最も美しいものは騎士団か歩兵団であると見る。他の人たちは艦隊と見るかもしれない。わたしにとって世界で最も美しいものは、各々にとって夢中になれるものである。
最も美しいものは、人間の顔であり体である
なぜなら、神々が作り出した理想的なものが顔と体だからである
そのため、完璧な美が少年や少女に見られると、それは神の存在の徴であるとされる
ヘロドトスは、クロトンの若者が死んだ後、「彼の美しさゆえに」神の栄誉が与えられたと語っている
彼の墓のうえには小聖堂が建てられ、供え物が捧げられた
プルタルコスの中に、ニキアスが美しく若い奴隷に神として自由を与えたという話が出てくる
彼を拘束状態にしておくのは「あまり宗教的ではない」と言っている
イソクラテスは『ヘレネ頌』の中で、絶世の美女ーー「最も神聖なもの」ーーであるヘレネは不死の恩恵に浴し、夫のメネラオスにもそうさせたと語っている
2021年9月2日木曜日
コンシュ「懐疑主義と哲学の意味」(21)
地下の明るい、彫像やフレスコ画で飾られ、世界の幸福であると見做される人たちの家に溢れているようなすべての家具が具わった綺麗な住まいにずっと住んでいた人がいたと想像してみよう。これらの人たちは地上に行くために彼らの洞窟を出ることは決してなかっただろうが、威厳と権威で刻印された神々が存在することは噂で聞いていただろう。そして暫くして、地面に通路が開き、彼らは地下の住まいから脱出し、我々が住むところに辿り着くことができたとしよう。それから、彼らが突然陸や海や空を見た時、雲の宏大な広がりと風の強さを観察した時、太陽に気付きその大きさと美しさだけでなく、空一杯に広がるその光によって昼を作り出す時に及ぼすその効果的な活動を認める時。そして夜、暗闇が地上を被っている間、彼らは星の色とりどりのタペストリーで飾られた空全体を、満ち欠けする月の変化を、すべての星が昇り沈むのを、そして星の永遠に続く決まった普遍の運行を見た時ーーこれらすべてを見た時、彼らは神々が存在すること、そしてこのような壮大な驚嘆すべきものは神々の作品であることを信じただろう。
神々については横に置き、世界の美に対する賛歌に止めることにしよう
美が確実に感知されるためには、世の中で「大家とか所持者」に成ろうとする人の目ではなく、観想生活者の目が前提となる