2021年7月31日土曜日
7月を振り返って
2021年7月30日金曜日
コンシュ「懐疑主義と哲学の意味」(2)
哲学は、それが絶望的であれ致命的なものであれ、真理だけを気に掛ける
それでは、どの真理のことを言っているのか
それは次のものではない
天文学的、物理学的、化学的、生物学的などの現象に関する真理
世界で起こった、あるいは現に起こっていることに関する真理
社会の進化を説明したり記述したりする法則の探究
あるいは、そういうものがあるとして、精神状態や行動を支配している法則
これらすべては科学あるいは諸科学の問題である
これらの科学は、予見、準備、行動するための感覚所与(データ)を我々に知らせてくれる
科学の究極の目的は、有用性と技術である
ファラデーの法則自体に一体だれが興味を示すだろうか
誰もいないのである
しかし、電気分解は膨大な応用が可能である
技術的行為は本質的に限定的なものである
それは必要となる限定的な真理しか科学に要求しない
このようにして科学は常に部分的な真理を提供する
科学は複数でしか存在しない
科学は現実の全体ではなく、感覚所与としか関わりを持たない
そのため、唯一で普遍的な「真理」ではなく、感覚所与から確立される真理にしか辿り着かない
しかし、部分的ではない客観的な他の真理はないのだろうか
哲学が真理を目指しているとすれば、それは感覚所与から確立される真理ではなく、現実の全体に関する真理である
そのためには、感覚所与とそれを超えるものの両方を理解しなければならないのである
感覚所与を超えるものとは、一般に形而上学(métaphysique)と呼ばれる
この言葉は若干不十分である
実際には、physique(物理的)という言葉にはギリシア語のphusis(自然)が入っている
「物理的なものを超えた」ものとしての形而上学は、単に自然を超えたものではない
自然の中には感覚所与を超えたものがあるので、形而上学とは一般的に感覚所与を超えたもののことである
2021年7月29日木曜日
コンシュ「懐疑主義と哲学の意味」(1)
1998年12月5日、トゥールーズで行われたマルセル・コンシュさんの講義『懐疑主義と哲学の意味』から
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デカルトの死後に出た論文集にある未完の対話は「自然の光による真理の探究」と題されている
確かに、哲学の意味とはこのようなものである
「世界で最も共有されているもの」、すなわち良識あるいは理性の助けを借りて真理を探究することである
しかし懐疑主義は、真理は存在しないとか真理には到達できないという
それでは、哲学の意味は何なのか
懐疑主義者が哲学に何も期待しないのだとすれば、哲学をすることはできるのだろうか
大雑把に言えば、これが提出された問いのポイントである
ペリゴールのお城で純粋で簡素な無為に専念すると決意したモンテーニュ
彼の精神が絶え間なく生み出す「キメラと幻想的な怪物」に驚きながら、彼の思想に秩序を齎すためにそれらを書く決心をする
彼は言語の性質について省察し、ホメロスの詩を引用する
言語はどんなことでも、あるいはその反対のことを言うための言葉の豊かな基底を成すものである
わたしはフランス語の言葉の豊かな基底を自由に操る
これらの言葉をどのように関連付けるのか
何のために
あなたは何の役に立つのか
不確定の読者に語り掛けながら、モンテーニュは明確に言う
わたしはこの中で君たちの役に立つことは何も考えていない
しかし『エッセイ』は多くの人の助けになり、役に立っている
しかしそれは役に立つことを目的として書かれたわけではなかった
わたしがリセや大学で教えていた時、生徒や学生に役立つように気に掛けていた
この点では、わたしは哲学者ではなかった
哲学者は有用性について考えないからだ
最も有益なのは幸福に資するものである
つまり、哲学は幸福について考えない
ただ真理だけを考えるのである
しかし、真理はつらく、苦しく、幸福を破壊し不可能にする可能性がある
哲学と異なり、宗教は有用であるカテゴリーに属する
宗教は幸福を約束し、何をすべきか、幸福を受け獲得するためにどうあらねばならないかを命じる
そこでは真理より幻想の方が重要になる
仏教は明らかに真理を有用性の下に置く
ブッダは「人間に平和と幸福を齎すものしか教えなかった」(W・ラフラ)
それゆえロジェ・ポル・ドロワは、「有用性が真理を上回っている」と明言している
究極の目的が幸福あるいは救済、至福である教えは、おそらく宗教であり、知恵だろう
この教えは哲学ではない
2021年7月28日水曜日
アメリカの影響も蘇らせては
昨日はかなり酷い英語で話をしていたが、それでも昔の精神状態が蘇ってきた
本当に朧げとしか言いようがないのだが、、
それは日本ではなかなか顔を出さない自分の姿でもあると理解される
新しい環境に入ると、それまで抑えられていたところが前面に出てきて、時間の経過とともに置換されるようになる
アメリカにいた当時はまだ若く、仕事をしていたということもあり、その影響を強烈に受けていた
それは考え方とともに行動様式にも変化を及ぼしていたはずである
同様のことはフランスでも起こっていたと思われる
しかし、こちらは外面よりは内面への影響が圧倒的に大きかったと考えている
今日本にいて、それらの言わば別人格のような存在が共存した状態であるのを感じている
それは昔は望めなかったことなので、どこか穏やかな気分にさせている
ただ、折に触れて、中にある異なる存在を再び強調させる機会を持ってもよいのではないか
それは自分の中で永い眠りについていた部分を目覚めさせることになるかもしれない
もどかしさを感じた翌日に浮かんできた感想である
2021年7月27日火曜日
何というもどかしさ
そのため時間が掛かるのだが、もう少しで片が付きそうな感触を得ている
これに対して、アメリカの場合は口頭なので大変である
大昔にはマンハッタン・アクセントなどと言われたこともあるが、長い間使っていないので完全に錆び付いている
それと当然のことなのだが、現実世界への対応力というか意欲も落ちているようだ
今日は電話ミーティングのためにこちらに電話がかかってくる予定だったが、なしのつぶて
後から分かったことだが、会議をセットした方がこちらの電話番号を間違って聞き取っていたらしい
ということで、こちらはいつ終わるのかまだ目途が立っていない
いずれも現地にいればすぐに解決できることなので、何とももどかしい
2021年7月26日月曜日
パスカルの教訓
2021年7月25日日曜日
エンツォ・パーチさんの日記から(13)
2021年7月24日土曜日
エンツォ・パーチさんの科学論を読む(6)
(6)超越的なるものの閉塞と歴史の意味としての漸進的暴露
フッサールによれば、デカルトは日常的なありふれたものを一時中断する
超越的還元は、明々白々な人生を一時中断する
歴史的再構築、すなわち伝統と再生の関係における問題として人生を再発見するためである
デカルトの隠された意味が超越的還元であるとすれば、デカルトに隠されたままであるものは超越論そのものである
実は、彼は自分の発見を「心理主義的な」意味で誤解していたのである
彼はエゴを客観化した魂に還元し、主観主義に「再び蓋をした」のである
それはフッサールにとってみれば、アルキメデス的哲学である
フッサールは、デカルトが「わたし」と「あなた」、「内」と「外」のようなすべての区別が絶対的エゴを構成していることを理解していないと言及している
フッサールが言う「絶対」は形而上学的位置を占めるものではない
それは、我々が我々自身のどこからでも実際に始めることができないという意味での「絶対」である
科学的客観主義がデカルトに及ぼした影響は、意図的行為が行われるエゴに内在するものを問うことを無条件に妨げたのである
超越的主観主義の意味を失い、デカルトはこころを分析することになり、それは客観的心理学につながった
デカルトが発見し、同時に隠したものは志向性そのものであった
彼は世界を幾何学的に理解できると考えたのである
経験論の機能はすでに与えられたものと、理性主義の客観化された超越性に対して反応することである
客観主義的理性主義を批判することにより、経験論は真の超越論の基礎作りに貢献した
しかし、ジョン・ロックもまた心理主義的客観主義に取り込まれた
他方、デイヴィッド・ヒュームはすべての理性的に構築されたものは「架空のもの」であるとした
ヒュームとともに理性的客観主義は自爆したのである。
2021年7月23日金曜日
エンツォ・パーチさんの科学論を読む(5)
(5)近代思想の歴史的背景
2021年7月22日木曜日
エンツォ・パーチさんの科学論を読む(4)
(5)近代思想の歴史的背景
2021年7月21日水曜日
少しだけ天空に近いところで
2021年7月20日火曜日
エドガール・モランさんの100歳のお祝い
昨日、朝のセッションから戻り Youtube に行ったところ、これが現れた
UNESCOで行われたエドガール・モラン(1921.7.8 - )さんの100歳の誕生日を記念したセレモニーである
これまで折に触れて何冊か読んできた方なので、早速そのお姿を拝見することにした
セレモニーの間、寝入ってしまわないか心配していたが、杞憂であった
むしろ聴いているこちらの方がウトウトしてしまった
益々お元気で、原稿なしで1時間ほどエネルギッシュに話をされていた
最後は、ご本人は「フランク・シナトラの」と言っていたが、決して完成することのないMon chemin が流れていた
そう言えば、つい先日、ニーナ・シモンさんの歌を聴き比べたばかりであった
もう一つ感じたことは、祝辞を述べる方たちの言葉に対する感受性のようなものである
これはフランスでしばしば感じていたことなので、懐かしくフランスの空気を思い出していた
いずれにせよ、こうありたいと思わせてくれる一つの人生の時間を見る思いであった
2021年7月19日月曜日
エンツォ・パーチさんの科学論を読む(3)
(4)客観主義と超越主義: 二元論、対象化された心理学
「成る」ということは単に事実に基づくものであったり、原因となる出来事が単純に繋がっているものではない
フッサールによれば、それは「内側から」、時間の内的意識の中から生き直されることである
「内側から」という表現は、観念的な意識ではなく、モナド間の、物理的、本能的、身体的、心理的、精神的な具体性の中ある生きている人間に関わるものである
フッサールが「内側から」と言うのは、心理学のある学派がガリレオの物理学に則って人間の外側だけを扱っているからである
「精神物理学的客観化」をしているからである
ガリレオにおいて自然と美的生活という生きた世界が閉塞されているのと同じように、人間の生活世界が閉塞される精神物理学的客観化は、心身を分ける二元論から生まれるのである
従って、生活世界の閉塞は二元論と結び付いている
つまり、客観主義と超越的主観主義の間にある対比の起源はここにあるのである・・・
フッサールによれば、この二元論はガリレオの物理数学的な科学がすべての科学の唯一のモデルとなったところに由来している・・・
バークリーやヒュームの重要性は、自然化された心理学が不十分であることを明らかにしたことにある
それがカントの超越論的哲学に繋がり、今日の現象学に至っている
フッサールによれば、客観主義と超越主義との闘いには、近代精神の歴史の意味がある
客観主義にとって「在る」ということは、客観的に、物理数学的に、「すでに与えられている」ことである
他方、超越主義における「在る」とは、科学以前の生活世界、我々が現在生き、常に生きてきた日常世界である
この世界は「主観的」、すなわち直接のモナド間の生活であり、一人称の存在の相互関係である
「心理的」生活は生活世界の中にある
それは対象物ではない
現象学は常にこの生活を明らかにし、再発見する
それは超越論的哲学の最終形である
歴史家の仕事は、沈殿し、客観化され、疎外され、死んでいるものを捉え直し、そこに再び命を与えることである
真の歴史科学とは、蘇らせるための継続的な過程であり、隠れた歴史的意味を再発見することである
2021年7月18日日曜日
陶芸家、辻村史朗を観る
「どう作るかではなく、どう生きるか」
その人の生活を含めたすべてが作品に出てくるのではないかと考えているようだ
「一人でやることが重要」
これもわたしの中にあるものと重なる
現代の科学は僅かの例外を除いてグループでやらざるを得ないが、哲学などは本来的に一人でやるものではないか
ルドヴィク・フレックの言う思考集団(Denkkollectiv)から離れること
そこにこそ、何か新しいものが生まれる可能性があるように感じられるのだ
「到達できへんものに憧れてる」
これなどもまさにわたしが考える哲学への態度になるだろう
そして面白かったのが、夫の仕事ぶりを評して奥さんが「前のめり」と形容していたことだ
一昨日、このブログで同じ言葉を使ったばかりだったからだ
2021年7月17日土曜日
クロトンのアルクマイオンという自然哲学者
アルクマイオンという紀元前5世紀に活躍した南伊クロトン生まれのギリシア人哲学者がいる
自身の書いたものは殆ど残っておらず、第三者の証言に依らざるを得ないので、実像を捉えることは難しい
彼が医学者なのか、科学者なのかも分からないらしい
また、当時クロトンに教団を持っていたピタゴラスの学派に属していたのかについても議論があるようだ
ピタゴラス率いる教団とアルクマイオンとの間にどのようなやり取りがあったのだろうか
想像を刺激される
そして、この人物の考えの中にも興味惹かれるものがある
例えば、病気についての考え方である
体を構成する対立する力(湿・乾、冷・温など)が平等・均衡状態(イソノミア)にあるときには健康を維持する
しかし、どれか一つの力が支配する君主制(モナルケス)になると病気が発症すると考えた
健康と病理を政治的メタファーを用いて定義したのである
このように対立する力のバランスで健康を解釈する見方は、ヒポクラテス、ガレノスを経て現代まで引き継がれている
また、心や魂が心臓にあると考えられていた時代に、脳がその場であることを最初に指摘した人物とされている
知覚(例えば視覚)は(視神経を介して)脳に結合されていると考えた
さらに、知覚することと理解すること――現代の言葉でいえば、一次意識と二次意識――の違いについて言及した
それだけではなく、魂の永遠を唱え、プラトンにも影響を与えたとされる
2021年7月16日金曜日
「留まって」と「前のめり」の二段構えで
2021年7月15日木曜日
寺田寅彦の『ルクレチウスと科学』を読む
2021年7月14日水曜日
徳認識論、あるいは「科学の形而上学化」の役割
「医学のあゆみ」のエッセイシリーズ『パリから見えるこの世界』第101回のご紹介です
徳認識論、あるいは「科学の形而上学化」の役割
医学のあゆみ(2021.7.10)278(2): 180-183, 2021
これまで折に触れて書いてきた「科学の形而上学化」という方法を認識論の枠組みの中で考えたものです
どのような認識生活を送るのがよいのかを哲学する「徳認識論」という領域を知り、新たな局面が見えてきました
お目通しいただければ幸いです
よろしくお願いいたします
2021年7月13日火曜日
エンツォ・パーチさんの日記から(12)
Bellaria, 12 août 1958
現象学は感じ、生き、そして人生において真理を発見する一つのやり方である。それは人生における真理の、そして真理における人生の持続的な経験である。科学と技術が生まれるのは、芸術、倫理性、文化一般の形が生まれるのと同じように、この「図式的」で歴史的自然の経験からである。
フッサールが語る厳密さは、本質的なものとしての図式的なものの発見と密接に結び付いている。それは生きた知の基礎としてのプラトン主義のルネサンスである。存在は身体性であり生活世界である。統合、図式は自然と歴史の具体性である。それはプラトンが『パルメニデス』の第三の仮説の中で探求したものである。従って現象学は、技術的で最終的なもので体系的なものという意味における厳密な科学として哲学を発見することはない。フッサール自身、このように偶像化することを恐れていた。
現象学は真理への運動として、持続的な発見と再発見として、知覚しないものの無限の闇と真理の有限の光の間に位置する人生を経験することである。
2021年7月12日月曜日
エンツォ・パーチさんの日記から(11)
Milan, 7 juillet 1958
午後、ルクレティウスの『物の本質について』とエンペドクレスの影響についてのいくつかの考えが浮かぶ。エロスはルクレティウスにおける主要なテーマである。それはまさしく、この詩を科学の叙事詩的高揚から曖昧さの劇的な認識に変容させる第VI巻である。人間の文明史はまた、曖昧さのお清めの歴史でもある。
アテネのペストはトゥキディデスと医者との関係について考えさせる。病気としての、そして治癒としての自然(それをヴェルナー・イェーガーは「ヒポクラテスの公理」と呼んだ。すなわち、自然は自分自身を癒すのである)。 ルクレティウスは病気と文明、そしておそらく、狂気と文明との間にある秘密の関係を見抜いていた。その非常識さの神話は詩と密接に結び付いている。ルクレティウスにおいては、ヒトと自然、憎悪と愛情の間にあるエンペドクレス的矛盾が反映している。そして最終的には、エンペドクレスの影響がエピクロスのものより強くなっていることが明らかになる。
ルクレティウスとカトゥルス。カトゥルス同様、ルクレティウスには一つの宗教性があり、『物の本質について』の第VI巻に見られるエロスはアッティスを想起させる。
2021年7月11日日曜日
ニーナ・シモンの『My Way』を聴き比べる
今日は12年前にポーランドのクラクフで出会ったニーナさんの My Way を聴き直してみることにした
これを耳にした時には体が跳ね上がるような感じがしたものだが、12年経ってもその感覚が蘇ることに変わりはない
今回、さらに二つのバージョンを聴き比べてみた
彼女が自身の音楽哲学を語った後にゆったりした My Way が続くもの
そして、最初のバージョンをアレンジしたライブ映像で、やや遅いが凄味が増しているもの
暫くの間、楽しめそうである
2021年7月10日土曜日
エンツォ・パーチさんの科学論を読む(2)
第一部 科学の危機と現象学における時間の問題
2 生活世界の閉塞と超越的なるものの意味
(3)ガリレオにおける生活世界の閉塞
フッサールによれば、ガリレオは真に経験され、経験可能な世界、すなわち生活世界を数学のカテゴリーで代替した
理想的な自然が、科学前の直観で捉える自然の上に重なり合うようになったのである
フッサールは言う
生活世界には幾何学的な空間も数学的時間もない
一般的に言えば、生活世界に「理想化」は存在しない
実は、理想化は生活世界の中で始まり、そこに留まる一連の操作の結果である
従って、この起源が閉塞されると、理想化されたものが現実とされ、具体的なものは抽象化されたものに取って代わられる
生活世界が抽象的な数学の概念でドレスアップされ、生きた経験である起源から隔離されると、誤解され閉じ込められる
これが、ガリレオが彼の技術と方法を発見したやり方である
テクノロジーは今でもこの土台から生まれている
従って、フッサールにとって、この危機の歴史的起源にいるのはガリレオなのである
この状況に我々自身もいるのである
現象学はこのような状況から解放しなければならない
具体的には、抽象的な装いからの解放であり、生活そのものを経験させない、あるがままのものを経験させない、すべての意味が現れる生活世界を経験させない客観化された科学からの解放である
2021年7月9日金曜日
エンツォ・パーチさんの日記から(10)
3 juillet 1958
我々が考えている時に我々の中で起こることを記述すること? 記述するとは、動きの中にある思考の形、我々の中で考えられている宇宙、そして我々の中で行われる明確にされるための、光の下に来るための闘いを見ることなのか? 自伝ではなく、我々が考える時に我々の中で起こることの歴史。 哲学的体系とはおそらく、我々の体、世界、無限に開かれた運動の中から出現するより深い真理のダイナミズムが意図的に静的にされた人工的な休止ではないか。
2021年7月8日木曜日
エンツォ・パーチさんの日記から(9)
11 juin 1958
現象学は真であるもの、生きているもの(真理と生命)に近づこうとする傾向がある。
生命と真理の意図的な収斂はおそらく、フッサールの志向性の最も深い意味である。わたしが現在の実際的な些細なことの中に模範的なもの、典型的なもの、本質的なもの、真実が具現化したものを発見するのは、本質の中で自己の限界を乗り越えることによってのみである。
それを実現しようとして我々の生を生きること、その中に真なるもの、本質的なものの経験を発見しながら生きること。これは時間に基づく一つの生き方である。この生を探求することは、プルーストにとって失われた時の探究に見えたのである。
2021年7月7日水曜日
エンツォ・パーチさんの日記から(8)
4 juin 1958
フッサールがデカルトのコギトを現象学の方法の中心に置いた事実を過小評価すべきではない。しかし、このことの意味を間違えてはいけない。哲学がコギトから出発しなければならないという事実は、哲学の領野を分析・数学的方法に還元することではない。コギトから始めるとすれば、その哲学者、そしてその人間は自分自身の中だけに、自身特有の個人の経験の中に、明白な現実の中でそれ自体として提示される生を発見することである。ここでもまた明白なことはとりわけ、我々の生のすべての内容(意味、感情、記憶、想像、見方)を議論の余地のない方法で、我々に直接的で全的に提示することであることにすぐに気付かなければならない。
すなわち、間接的に我々に提示されるものと、我々が直接的に生きているものとの間に最初から区別があるのである。
「我々の人生の意味」(le sens de notre vie) という表現から明らかなように、人生における「意味」とは「方向」(le sens)のことなのである。間接的な人生から直接的な人生へ、あまり実現されていない人生からより実現される人生へ、あまり我々のものでない人生からより我々のものである人生へ、あまり現前していない人生からより現前される人生へ、より限定された人生からより限定されていない人生へ、・・・
つまり、漸進的とでも言える人生の方向がある。より少ないからより多くへ、間接から直接へ、形だけの参加から「生きている現在」(lebendige Gegemwart)が精神的交感であり関係である実質的な参加へと進むように見える方向である。
2021年7月6日火曜日
すぐに最終点に辿り着かない認識
これまでどこを見ていたのかと思うことが日常生活(「生活世界」と言い換えることにしようか)にはある
あることをしようとした場合、当然思い付いてよいことに思いが至らないのである
なぜそのことに気付かなかったのかと不思議になるのである
今日、何と長い間貴重な機会を利用していなかったのかという大発見をした
余りにも当たり前過ぎるのでその詳細には触れないが、完全な盲点になっていたのである
このようなことは偶に起こる
直ぐに最終点を認識できても良さそうなのだが、その前に他のところに行かなければ最終点が見えて来ないのだ
今回の例を振り返ってみれば、そのことを必死に求める気持ちがなく、最初から諦めていたようだ
昨日、ある方との会話の中で一つの可能性が提示された
今日それをやっている時、これができるならこれまで諦めていたことも同じようにできることに気付いたのだ
しかも直ぐにではなく、暫く経ってから
全くどうなっているのかという感じだが、こういうことに気付く過程は実に興味深い
今日の発見で可能性が広がり、これから少しだけ自由になるような気がしている
2021年7月5日月曜日
靉光の『眼のある景色』からスクリーンの中の意識へ
2021年7月4日日曜日
驚くべき植物の生命力
2021年7月3日土曜日
エンツォ・パーチさんの科学論を読む(1)
第一部 科学の危機と現象学における時間の問題
1 人間のための科学の意味の危機としての科学の危機
(1)科学の危機と存在の危機
フッサールは『危機』の中で、科学の危機について触れている
それは科学そのものというよりは、人間存在にとっての科学に関することである
科学は成功を収めているが、まさにその理由により科学の危機が存在する
心理学の危機は単に心理学に止まらず、他の領域にも及ぶ
心理学が扱う主観性の謎がそれに抵抗するからだ
しかし他の科学は、19世紀後半から事実の科学に還元された
現代人は繁栄と科学の成功によって規定されることを受け入れている
あるいは「単なる事実の人間」であることを望んでいる
それは心理学を事実の科学に変容させることになる
それは主観性や世界における自由、理性的に自己、自分の人生、自分の歴史を形成する自由を破壊する
科学が危機になるのは、すべての主観的なものを排除し、事実の科学になる時である
「人生の意味」は問題ではなくなり、科学的に解析できない問題になる
しかし、科学はこの問題に解を与えることができるし、それこそが「科学性」の機能である
科学の危機は、この「科学性」と縁を切ったことによる
客観的に確認できる事実だけが真理ではない
科学に命を与え、人生に意味を与える理性の概念もまた真理である
真理は客観性に宿るだけではなく、それを超えるものである
科学の危機は、真理が事実にあり、意味は客観性に還元されると主張することによる
志向性に基づいている現象学は、自然科学であろうが社会科学であろうが、真理を事実に還元することに抗する
生命、魂、精神などは事実の科学では理解されない
フッサールによれば、真の知識は事実や客観性ではなく、それが厳密に基礎付けられているかどうかによる
実証主義による科学は、科学自身の明白な機能を誤解している
古代において重要であり、ルネサンス期に回復しようとしたものは、哲学的存在であった
哲学は哲学者だけではなく、人間を解放する
ルネサンスのプラトン主義は、我々の倫理的な再構成だけではなく、世界あるいは政治・社会的生活の再生を目指した
哲学はいろいろな科学の分野を統合しようとするものである
実証主義は形而上学を排除した
しかし、形而上学的問いを出すということは、事実性を超越した理性のレベルに彼自身を持ち上げることである
その意味では、形而上学は有効なのである
ルネサンス期に勝利したのは、哲学とその方法への信頼である
しかしその後、理性的人間の基盤としての哲学という考えは弱まっていった
現象学は主観性を人間に返そうとしている
人間を被っているものから自由にしようとしている
それは、人間が本来あるところのものを明らかにすること
ベールを取り払い、自分自身の真理を発見することである
哲学は人類の真の意味を獲得するために戦っている
哲学が今日可能であるとすれば、今ある自分に安住するのではなく、人間を作り直し、真の人間への道を開くことである
新しい哲学、新しい科学としての形而上学は、隠れているものに光を当てなければならない
隠れているものとは、真の原初の人間である
フッサールにとって、新しい科学としての哲学は潜在性から顕在性への歴史的運動である
そこから現れ、現象となるのは、我々の中に隠れている真の生命である
現象学は人間を自己意識へ、自己の基盤へ、自己の性向へ、超越的基盤へと導くことを考えている
それが可能になるのは、事実に過ぎないこと、および実証主義の「実証的」ということをカッコに入れる時である
超越的基盤は純粋な主観性に還元されることが求められる
一人称でいることである
この還元を被うものは常に現れ、生活世界を見え難くするので、純粋な主観性を取り戻すことである
2021年7月2日金曜日
エンツォ・パーチさんの日記から(7)
18 novembre 1957
現象学、関係主義、道徳問題。あらゆる知覚において一つの典型、一つの本質を見ることが可能であるという事実の重要性。本質は常に関係の中にあり、「社会的」である。独我論に関するフッサールの言説の新しい側面。それはまさしく、わたしを他者と結び付けている本質的構造をわたしが発見するのは独我論の中である。知るということは、個人の中にモデル、典型、規範を発見することを意味している。
25 mars 1958
現象学的態度は、時に我々を考えさせ、時に哲学を生きさせる。しかし、それは我々を書く気にさせたり、我々の考えを固めさせたりしない。その意味では、現象学的態度はソクラテス的なのである。
28 mars 1958
『危機』(『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』)の視点から、わたしは再考する。地域の存在論、あるいは形相的、視覚的であると同時に超越的な知の未だ定義されたことのない概要について。プラトン主義、理想的な目的としての理性の明晰さの価値、そして文明と歴史の意味を新しい形の下に生まれ変わらせる形相的直観の再評価。有機的な知、常に新しい見方を開く志向性の視点は、「生活世界」(Lebenswelt)の絶えざる奪還と相関している。まさに、新しい地平を我々に開き、経験の具体性の中で我々を生きさせるための判断の中断(épochisation)。経験と理性的な視点は、過去や未来がそうであるように無限である。無限は可能性と曖昧さを持つ何かのように我々を包んでいるが、それは我々の有限の時間の具体性の中に生きている。フッサールに由来するこの示唆は有機的であり、方向付けされている。この視点から見ると、ホワイトヘッドの哲学的観点との相同性を免れるものではない。今日、何年か前にどのようにホワイトヘッドについて書くべきだったのかを知る。
ホワイトヘッドの言う「感情」(feeling)は「生活世界」(Lebenswelt)である。「感情」において、宇宙は出来上がった理論の中に閉じ込められ終わることはない。そうではなく、ある過程の中、異なる生活の歴史の中、時間の中での出来事のあらゆる関係性の中で更新されるのである。「もの・こと」は、過去と未来の中で、他の無限のモナドと結び付けられている開かれたモナドになる。まさにこれらのモナドは時空の中心であり、閉じたモナドではないため、互いに交差し出会うのである。時空の中で他の出来事の集合と関係を持つ出来事の集合、出来事の社会性。フッサールの志向性はホワイトヘッドの「美的」感覚と類似している。
2021年7月1日木曜日
プラトンの『メノン』を読む(2)
前回、『メノン』の冒頭を読んだが、最後まで読むことにした
冒頭部分に、あることについて知らなくても方向性くらいは分かる、というところがあった
その理由は、魂には「正しい思わく」が具わっているのでそれを想起すればよいというものだった
魂の永遠に基づく議論だが、知識とは異なるものとして「思わく」を出してきた
徳についての議論を始める前に、徳とは何であるのかを知っていなければならない
しかしその前に、徳は教えられるものか、他の方法で得られるものかについて検討したいとソクラテスは言う
知識は教えられるが、知識でなければ教えられない
まず、徳は善き(すぐれた)もの、善き人間は有益な人間であることにメノンも同意する
我々は、健康、強さ、美しさ、富などを有益なものと言っている
魂に関しては、節制、正義、勇気、ものわかりのよさ、記憶力、度量の大きさを善きものとしている
これらのものは有害にもなり得るが、それは知性を伴っていないときだということに二人は同意する
徳が善きものであるためには知の導きが必要になるとすれば、徳と知が重なり合ってくる
もしそうであれば、すぐれた人物は生まれつきではなく、徳は教えられることになる
しかしソクラテスは次のように考える
教えられるものであれば、それを教える教師とそれを学ぶ生徒がいるはずだ
徳の教師はいるだろうかと問う
自分の子供を医者にしたいと思えば、医者のところに送って技術を学ばせればよい
他の技術についても同様である
そこで話題になるのが、知徳を教えると称して公然と謝金を要求するプロタゴラスに代表されるソフィストである
ソクラテスによれば、彼らは自分の交わる者を堕落させ、前より悪い人間にして返すということを40年も続けていた
しかもその間、全ギリシアがそのことに気付かないどころか、死後も名声が消えることがなかった
徳は教えられるのかどうかの問題に戻ってみたい
国事にすぐれた人格高潔な人物はその徳を教えることができたのだろうか、とソクラテスは問う
何人かの政治家を出しその息子の状態を見ると、技術にすぐれた者はいたが、徳が教えられた形跡はない
徳の教師を唯一名乗るソフィストにしても、やっていることは弁論に秀でた者にするということだけ
つまり、徳は教えられないということになる
しかし、すぐれた人物は存在している
とすれば、徳に至るには知識による以外の方法があるのではないか
そこで思い至るのが「正しい思わく」で、行為の正しさを問題にする時、それは知に劣らないものになる
ただ、「正しい思わく」は人間の魂から逃げ出すので、思考により縛り付けておかなければならない
そうすれば、それが知識になり、さらに永続的なものとなる
これが知識と思わくの違いである
徳は知識ではない
つまり、政治的活動を導いているのは知識ではなく、思わくのよさであった
そこで偉大な成功をおさめる者は、神の恵みを受けた者ということになる
これで徳がどのようにして人間に具わるのかは分かった
そして、これから徳とは何なのかについて議論しようという時、いつものようにソクラテスは答えず去っていく
ところで、メノンがソクラテスのことを次のように評しているところがあった
あなたという人は、顔かたちその他、どこから見てもまったく、海にいるあの平べったいシビレエイにそっくりのような気がしますね。なぜなら、あのシビレエイも、近づいて触れる者を誰でもしびれさせるのですが、あなたがいま私に対してしたことも、何かそれと同じようなことのように思われるからです。なにしろ私は、心も口も文字どおりしびれてしまって、何をあなたに答えてよいのやら、さっぱりわからないのですから。(藤沢令夫訳)