2021年11月30日火曜日

11月を振り返って


















今年も残すところひと月となった

いつものように今月を振り返ることにしたい


第一は、長期プロジェとしてきた試みが一応の終わりを迎えることになった

ただ、やり終えたという感慨はない

おそらく、これから先も続くと思っているからだろう

現在のバージョンは暫く寝かせて、再度見直すことにしたい


第二は、長期プロジェが一段落したので、中断していたプロジェをやっと本格的に始めることが可能になった

少しずつ始めている

これから思索を深めていきたいものである


第三は、今月もコンシュさんの「形而上学の概要」を読み、さらに「哲学的自然主義」へと進んでいる

コンシュさんの思考内容と言い回しに少しずつ慣れてきたように感じる

また、わたしの中にあるものと共振するところも少なくない

あるいは、最初に触れた哲学者としての影響が無意識のうちに及んでいるためかもしれない

来月も続けることになるだろう


第四は、長期プロジェから派生してきた考えをさらに深めることにした

調べて見ると、少なくとも今年の初めには考えていたアイディアであることが判明

長期プロジェのために1年間手を付けられなかったことになる

どうも一時期に一つのことしかできないようになっているようである

昔はもっと切り替えができたように思うが、一つのことに入り込む深さが今とは違う可能性が高い

いずれにせよ、このような流れがこれからも増えそうな予感がしている


第五は、新しいサイトを立ち上げることにしたことである

最近、フランス生活の中にいる時にはできなかった振り返りの作業ができそうな感じになっていた

おそらく、フランス生活が止まったままそこにあるので、見やすくなったことがあるのだろう

何かが終わるということには大きな意味があることを再認識する

新しいサイトは「Mind Files for Philosophical Musings」(哲学的省察のためのマインドファイル)と名付け、フランスで触れた「もの・こと」を拾い上げることにした

具体的には、2008年から書き始めたメモを読み返し、わたしの受容体を刺激した「もの・こと」を再確認・再発見することである

おそらく、その全体はその後に展開されるだろう新たな思索のベースとなるだろう

他のプロジェの合間を縫って、ゆっくりと進めていきたい


最後に、ほぼ2年振りに旧知の方々と対面で言葉を交わすことができたことが挙げられる

メールでは到底カバーできないものを得ることができたのは幸いであった

最近少し怪しげな気配を感じるが、COVID-19がこれ以上広がらないことを願うばかりである


今月もよく摘み取ったと言えるひと月になった











2021年11月29日月曜日

コンシュ「哲学的自然主義」(9)































民主制において、選挙の選択の場合、人々は一般に自分の利益であると考えるものに従うか、政府がやるべきなのにやっていないことに立脚する考えに従って行動するか、個人的な好み、共感あるいは反感に任せるかである。

彼らは自分の選択が非常に異なった興味や計画、あるいは全く異なる共感や反感を持っている人にも有効であると主張しているわけではない。

しかし、形而上学的選択には普遍性がある。

なぜなら、我々が選ぶものは現実の全体について、従って世界と人間の全体についての真実だからである。

科学的真理は選ばれてはいない。

微生物が存在し、水は水素と酸素から構成され、地球は太陽の周りを回っている。

これらすべてをあなたたちは認めなければならない。

しかし、形而上学的真理は選ばれている。

なぜなら、我々はそれが何であるのかを知らないが、それでも形而上学的真理なしに済ますことはできないからである。

選択は不可避であると同時に、自由である。

しかしながら、我々は不確実性の中で選択するのである。


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今回も普遍性の問題が引っ掛かった

科学的真理は選ぶことができず、受け入れなければならない

それに対して、形而上学的真理は選ばれているので誰にでも当て嵌まるわけではないという

とすれば、科学的真理の方に普遍性があるように見えるのだが、、

あるいは、科学は部分についての真理を求めるのに対して、形而上学は人間、世界の全体に対する真理を扱っているからと言いたいのだろうか

ただ、それはすべての人に当て嵌まるわけではなく、選択が行われている

選ばれたそれぞれは万能ではないが、それぞれの中では全体に迫ろうとしていることをもって普遍的だと言いたいのだろうか

もう少し考える時間が必要のようだ






2021年11月28日日曜日

コンシュ「哲学的自然主義」(8)































サルトルは、わたしを選ぶことによってわたしは人間を選択する、と言った。

それは正しい。

しかし、彼はそれを厳密に道徳的な意味で理解した。

ところが、人間の意味は「もの・こと」の全体性のレベルで決定される。

創造主の神が存在する、しないで、死を超えた生の希望が正当化されたり、されなかったりする。

有神論であれ、無神論であれ、証拠を引き合いに出すことができないので、これらの形而上学的オプションの選択はそれぞれの自由に任されている。

ジュール・ヴュイマン(Jules Vuillemin)は「哲学において理性的な決定の基準はない」と言った。

わたしが正確に言うとすれば、形而上学においては、となる。

――なぜなら、道徳においてはそうはならないからである(わたしは倫理とは言っていない。二つの概念をわたしが混同しないようにしているものである)

わたしを選択することにより、わたしは人間を選択すると言うことは、もしわたしのためにこのようなオプションを選ぶとすれば、あなたにもそのオプションを選ぶことになる。

もしわたしが無神論者であれば、わたしにとってもすべての人間にとっても、すべては死と共に終わるとわたしは考える。

もしわたしが創造主である神を信じているならば、永遠の魂をわたしが与えるのはわたしと共にあなたでもある。

なぜなら、形而上学的選択には普遍的な意味があるからである。



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前半の「形而上学には理性的な決定基準はない」というところと、後半の「形而上学的選択には普遍的な意味がある」というところがわたしの中ではうまく繋がらなかった

規準がないところで選ばれたものに普遍的な意味があるとすることに違和感を覚えたのだが、、

もう少し時間をおいて考えることにしたい







2021年11月27日土曜日

コンシュ「哲学的自然主義」(7)

























昨夜は寒いと思っていたが、今朝はこの景色

今年初めて積もった雪を見た

暫くすると太陽が顔を出し、雪が解け始めた

溶けた雪が陽の光にキラキラ輝き、美しい

風もないので、この雰囲気を感じながらの紫煙と決め込んだ

それが悪くない

Pas mal ! というやつである

お昼にはすっかり溶けてしまった

満足したところで、早速コンシュさんを読み進みたい

最近は修行をするような感じになってきた


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ベルクソンが語った「自己による自己の創造」は、我々が形のない要素すなわち精神の中にいることを前提としている。

偉大なエミール・リトレオーギュスト・コントの最も卓越した弟子であった。

しかし、実証主義の形而上学に対する用心深さだけに満足することは難しい。

そのため、彼は唯物論に陥ったことを非難される。

確かに、唯物論者が「物理学者が物質には重みがあると認識するように、生理学者は神経の物質が考えると認める」と書くことはよい。

今日の唯物論者は「脳は考える」と言う。

しかし、「脳は考える」と言わなければならないのは、脳がなければ考えることができないからではない。

必要条件は十分条件ではない。

パスカルの言葉を思い起こそう。

「すべての物体を合わせたものからでも、小さな思考を生み出すことはできない。それは不可能であり、他の秩序に属しているのである」(fr. 793 Br.)

しかし、脳は肉体に他ならない。

肉体に過ぎないものから、どのようにして精神を生み出すのか。

思考のないものから、どのようにして考え、考えられるものを引き出すのか。

つまり、決定論に従属する宇宙から出発する唯物論者は自由の出現を説明できない。

自由がなければ彼自身、少なくとも真理の意味を持つ何の言説も口にできなくなる。

同様に、脳組織にある複雑で分化した物質から出発する唯物論者は、心の内奥としての何か、それによって一人の人間になる自己と自己の関係を可能にする自由をそれ以上には説明できないのである。







2021年11月26日金曜日

コンシュ「哲学的自然主義」(6)



















しかし、わたしが語るこの自由――それは現れたものを純粋に受け入れ、無関係なものを加えることなく見るものを表現する判断を可能にするものだが――、これは依然として因果関係による決定がないことを意味するネガティブな自由でしかない。

これはまた、普遍的な自由でもある。

なぜなら、この自由が内包する開かれた構造――それはハイデッガーが Dasein (現存在)と名付けた構造である――はすべての人間において本質的なものであるからだ。

しかし、この自由にはうっとりさせる側面はあるが、別の側面も持っている。

疎外させるものと言うこともできる因果関係による決定の支配が法的に終わるところは、いわゆる良心の裁きの場である。

自己による自己についての瞑想から出発することにより、純粋に内奥から発する決定が生まれ得る。

その時、自由は個人的な独自の因果関係の出現に委ねられ、そこではそれぞれが自己の原因となる。

なぜなら、ベルクソンがレオン・ブランシュヴィックに「自由は虚しい言葉に過ぎないかも知れないし、心理的な因果関係かも知れない」と書いたように――勿論、原因と結果が同等である物理的因果関係をモデルに基づいて考えるべきではないが、創造的因果性として考えるべきである。

なぜなら、「行為自体により、以前には存在しなかった何かを創造すること」を意味しているからである。





2021年11月25日木曜日

コンシュ「哲学的自然主義」(5)

























今朝は明るい日が差し、風がない

久し振りに紫煙の時を味わうことにした

この時間は内的空間を大きく広げてくれる

普段は別々のところにあるものを繋げてくれる

気持ちが洗われたところで、今日もコンシュさんに当たってみたい


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唯物論は唯物論の真理を肯定した途端に、自由を否定する場合、自己矛盾を起こす。

なぜなら、その肯定は自由を通してしか真理の意味を持ち得ないからである。

さらに、世界に感覚を開くことは、それだけですでに自由である。

自由な存在だけが目の前にあるものを、ただ目の前のここにあるものとして見ることができるのである。

わたしは動物が彼らの世界を持っていないとは言いたくない。

猫や犬のように、ハエや蜂あるいはハリネズミの世界がないとは言いたくない。

しかし、それは開いた世界ではない。

確かに、人間の世界も、何かに没頭する世界でしかない限りは、同じように閉じている。

例えば、農民や猟師や散策者のような世界は閉じている。

しかし、この柵は開口部の底にある。

農民は農民であることを一瞬忘れ、囚われのない自由な視線に現れる世界を虚心坦懐に眺めることができる。

なぜなら彼は、農民である前に考える人だからである。

動物はその程度は様々だが、知性や意識を持っているが、思考はしない。

考えるとは、「これは存在する」あるいは「これは存在しない」と言えることである。

それは真なる判断をすることができることである。

思考は人間にしか属しておらず、自由によってのみ可能になるものである。







2021年11月24日水曜日

コンシュ「哲学的自然主義」(4)

























今朝、今年初めて白いものを見た

ふわっとした大きな雪が横殴りの風に乗って落ちてきた

遂に新しい季節に入ってきたようだ

今日もコンシュさんを読み進みたい


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従って、形而上学は自由に立脚している。

如何なる哲学者も――それが自然主義者であれ唯物論者であれ――否定することができないものが1つあるとすれば、それは自由である。

なぜなら、自由がなければそれ自身の体系が不可能になるからである。

と言うのも、原因によって決定された彼の判断は、真理の視点から見ればそうではあり得ないので(なぜなら、真理は原因ではなく、世界の中の何かではないからである)、彼は真理を語ることができない。

鸚鵡は明るくなる時、「夜が明ける」と言うように条件付けできる。

しかしわたしは、明るくなるのを見たので「夜が明ける」と言う。

もしわたしの判断がすべての因果関係――社会学的、生物学的、心理学的などの――から自由でないとすれば、それが真となるにはどんな偶然が必要となるだろうか。

わたしは「法律上の」自由と理解する。

なぜなら、実際には多くの判断が利益、欲求、気分、影響、習慣に隷属する表現に過ぎないからである。

なぜダミアンは「神は存在する」と言うのか。

彼はそのことについて何も知らないが、そう人に言われたので彼が繰り返しているだけである。

彼はなぜ、「民主主義は政治体制の中で最良のものである」と言うのだろうか。

彼はその理由を知らない。

その判断は真かもしれないが――それを認めよう――、彼は真理の感覚を持っていない。

なぜなら、彼は理性と省察の明白さを根拠にしていないからである。

普遍的な決定論を主張する者は誰でも自己矛盾に陥る。

なぜなら、決定論が普遍的でない限り、決定論が普遍的であることを真として主張することができないからである。








2021年11月23日火曜日

コンシュ「哲学的自然主義」(3)

























ショーペンハウアーは、「わたしは『形而上学』を、経験を超えた知識であると自負するすべてのものであると理解している」と書いている。

わたしは「知識」という言葉を忌避する。

現実の全体は絶対的に経験を超える。

従って、形而上学は知識であると装うことは決してできない。

科学だけが我々に知識を与える。

わたしが定義したような形而上学は、科学になることを夢見てはいけない。

科学的ではなく、形而上学は基本的に思弁的なものである。

カントの語法による「思弁」という言葉が、ここではぴったりする。

証拠も証明も形而上学にはその場所がなく、あるのは議論だけである。

しかし、誰でも議論に与える重み(それが決定的であろうとなかろうと)からは自由なので、説得力があるとして一方に従い、他方を無視するのである。






2021年11月22日月曜日

コンシュ「哲学的自然主義」(2)

































それは結局、形而上学と特定の形而上学、この場合、唯心論的形而上学を混同していることになる。

わたしは、形而上学を「もの・こと」の全体性に関する言説であると理解している。

あるいは、「全体」という言葉を好むのであれば、現実の全体についての言説としてもよい。

この「全体」とか「現実」という概念は、やはり問題である。

「全体」とは、有機的な全体、繰り返される総計、あるいは寄せ集めることができない多数性のことである。

そして「現実的な」ものとは、現実の度合い(の違い)を伴ったり伴わなかったりするプラトンとヘーゲルの "ontôs on"(現実に存在するもの のようなものであるとわたしは言いたい。

その上で、唯物論者のエピクロスはプラトンと同程度に形而上学者である。

エピクロスが全体としての現実の表象を我々に提示したからだ。

形而上学の対象は現実の全体である、とわたしは言った。

しかし、その対象は分かち難く人間自身でもある。

人間の問題とは何なのか。

人間とは何かを知るためには、人間が全体の中で意味するところを知らないければならない(だろう)。

超自然的な現実があるのか、あるいは自然しか存在しないのか。

それぞれの立場によって、死の意味が変わってくる。

もう一つは「人間とは何か」という問いに対する答えであり、もう一つは人間が自分自身に対して持っている考えである。

すなわち、人間には意味や運命があるのか、あるいは植物や動物以上の運命や意味はないのか。

それは「もの・こと」の全体において人間に帰せられる場所は何なのか、すなわち人間存在の地位は何なのかを知ることである。

これは権利の問題である。

人文科学は事実の問題しか解決できない。

科学的視点から見れば、人間についてこれほど知識を得たことはなかった。

しかし、形而上学的視点から見れば、これほど無知であったこともなかった。

マックス・シェラーは「人間は、人間とは何かを最早知らない」と言い、こう付け加えた。

「しかし同時に、人間はそれを知らないことを『知っている』」。







2021年11月21日日曜日

コンシュ「哲学的自然主義」(1)





コンシュさんの形而上学に関する大きな枠組みについて読んできたが、もう少し詳しく知りたくなってきた

ということで、その先にある「哲学的自然主義」の章を読むことにした

これはわたしが考えている「科学の形而上学化」にも繋がるところがありそうな予感がするからだろうか

早速、読み始めたい


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現代における形而上学は、唯物論者そして自然主義者でさえも形而上学者ではあり得ないように定義されてきた。

聖トマスは形而上学を超自然の科学と定義した。

その対象(transphysica)は神学と同じだが、方法として知性(intellectus)と理性(ratio)だけしか用いないという点で神学とは異なっている。

デカルトにとっての形而上学は、「自然の理性によって」神と魂を知ることが目的であった。

これがトマス主義者である。

ボシュエによれば、形而上学は「物質ではない」ものを扱う。

従って、物質でないようなものを否定する唯物論者は形而上学者ではあり得ない。

ヴォルテールはその『哲学辞典』において、「物質ではないものは形而上学的である」という一般的な意見を書いている。

そこから19世紀に至り、例えばエルメ・マリー・カロの以下の考えがある。

彼が反対する実証主義によって、「我々は以下の二つを同じように遠ざける。一つは、宇宙には理由があり、それを知ることができると断言する人たち――汎神論者、観念論者、唯心論者、形而上学者のすべての学派――で、もう一つは、現象には最終的な目的があることを自信を持って否定する人たち――唯物論者、無神論者、すべての形而上学の敵――である」。

1965から1969年にかけて、わたしはリールの文学部で教えていた。

わたしは形而上学のテーマを扱いたかった。

その時一人の同僚が、形而上学はカトリックの学部に任せなければならないと言ったのである。








2021年11月20日土曜日

来年はパスツール生誕200年























             日本パスツール財団の皆様と




先日、ご挨拶がてら日本パスツール財団を訪問

貴重なお時間を割いていただき、最近の活動のお話を伺った

その中の一つに、来年パスツールの生誕200年を迎えるに際して、記念となる行事の開催を検討中というお話があった


来年がパスツール(1822.12.27-1895)の生誕200年に当たることは知らなかった

フランスではパスツール研究所や研究所員によくお世話になり、パスツールの話題も耳にした

しかしなぜか、パスツールについて調べてみようという気にはならなかった

多くの人がやっているので、自分がその中に入ることに抵抗があったのだろうか

どこか横目に見るところがあった

この機会に少し調べてみるのも面白いかもしれない


ところで200年祭と言えば、2009年にケンブリッジ大学で開かれたダーウィンの生誕200年祭を思い出す

来年のパスツール200年祭はどのようなものになるのだろうか

興味が湧いてくる









2021年11月19日金曜日

コンシュ「形而上学の概要」(22)






















結論


(「多数の無限性」の一つとしての)無限で永遠の自然は、すべての「もの・こと」が途切れず倦むことのない創造によって生まれる源泉である。


そこでは、未来がすでに過去に含まれることはなく、すべては常に何らかの形で新しい。


自然は詩人を生み出す。


自然は永遠の詩人である。


科学的思想は自然の部分しか相手にしないが、形而上学は自然と現実のすべてを視野に入れている。


自然主義の形而上学的言説は、哲学者にとって真理そのものであるものを明らかにする。


しかし、議論や直観や証拠の感覚に過ぎないものしかない場合、その言説は証拠がないので、すべての人に働きかける方法を持っていない。



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今回でこのテーマは終わった


自然は創造の源であり、永遠の詩人である


科学はその一部しか相手にできないが、形而上学はそのすべてを視野に入れている


そこから真理が見つかることもある


その際重要となるのは、単なる議論や直観、証拠を掴んだような感覚だけでは駄目で、あくまでも証拠が重要だと言っている


そうしなければ、広く認められることにはならない


これがコンシュさんの考える形而上学の骨格のようである


少なくとも今の段階では異論はない、と言えるだろう








2021年11月18日木曜日

コンシュ「形而上学の概要」(21)

























この問いに我々が導かれるのは、どこから来るのか。

それはしばしば、我々が何かを見たり発見したりするのを期待することから来る。

しかし「何もない」。

その時我々は、(我々が期待した)何かの不在として何もないという経験をする。

そころが、我々は「何か」から「すべてのもの」へ安易に移行する。

それは、簡単に言えば、すべてのものが存在しなくなることである。

しかし、これとかあれの何もないから、絶対的に何もない「すべてが何もない」への移行は、思考の外に出ることである。

なぜなら、何かの何もない状態では考える何か(不在を確認するというような)は存在するが、絶対的に何もない状態では最早考えるものが何もないからである。










2021年11月17日水曜日

コンシュ「形而上学の概要」(20)




































「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」という問いを理解するには二つの方法がある。


ひとつは、もし何かがなかったならば、「存在するだろう」ものは何もないことを意味している。


――その場合、「存在するだろう」何かから何も作らないので馬鹿げている。


あるいはまた、もし何かがなかったならば、何も「存在しないだろう」ことを意味している。


この場合は、思考がそれ自体から思考のすべての対象を奪うので考えられない。



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従って、「何もないのではなく、何かがある」ことを肯定せざるを得なくなるということなのか。

ゆっくり読まなければなかなか理解できなかったが、わたしの理解(訳)で問題ないのだろうか。








2021年11月16日火曜日

コンシュ「形而上学の概要」(19)

























「なぜ何もないのではなく、自然があるのか」という問いは受け入れられないとわたしは言った。

ライプニッツが「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」と問うた時、彼が考えていたのは、どんな「もの」――それは神を含むのだが――でもよい何かではなく、「宇宙」あるいは「世界」であった。

彼は「世界が存在するという事実の完璧な理由」を問うたのである。

我々が見ることができるように、この問いは創造論の形而上学においては意味がある。

しかしそれは、「なぜ何もないのではなく、存在があるのか」という問いの根源においては理解されていない。

ライプニッツは神の中に世界の存在理由を見ている。

我々はそれを自然の中に見る。

しかし、「自然が存在する理由は何なのか」と我々は問う。

もし自然が無限で、永遠で、すべてを包み込むものとして考えられるとすれば――なぜなら、自然しかなく、自然は外部を持たず、他のものには如何なる空間もないのだから――、我々は自然それ自体以外にはその存在を説明する理由を見付けることができないのである。

そのような理由を探さなければならないのだとすればだが。

しかし、その理由を探す意味はないだろう。

なぜなら自然の存在理由を見出すことからなる回答は・・・自然自体の中にその問いを残したままにするからである。








2021年11月15日月曜日

コンシュ「形而上学の概要」(18)
































そこで、「なぜ自然であって、神ではないのか」、「なぜ何もないのではなく、自然があるのか」というような質問を覚悟しなければならない。

(ギリシアの)哲学者にとって理解しがたい人種がいる。

それが神を信じる人たちだ。

ニーチェが言ったように、一神教の神の「ようなものは一切」存在しないということは自明の理である。

しかし、「神は存在する」という命題には反駁できない。

従って、信者は真理の中にいる見込みがあると信じる「振りをする」のが適切なのである。

神は存在するという幻想が人生への信頼の条件であるように見える以上、それは信者を自身の幻想と共にあるようにするためである。

わたしが「他者の意図に対する懐疑主義」と呼ぶものがこれである。

オーギュスト・コントのように、どの宗教でもよいが、その誤りをわたしは確信した。

(「愛の宗教」は例外だが、それは神なき宗教である。)

説得するために、わたしは議論できる。

確信するために、わたしは証明できない。

わたしはすべての議論を避けるために、信者をその信仰のままにしておく。

なぜなら、神への信仰は啓示に基づいているのに対して、議論は理性以外の権威を認めないからだ。

信者とは会話はできるが、議論はできないのである。









2021年11月14日日曜日

コンシュ「形而上学の概要」(17)
































しかし、この真理には範囲(horizon)がある。

範囲の特徴は、由来するギリシア語の horizein が示すように、境界を定めることである。

しかし、範囲であるこの境界や限界であるものは、我々がいる場所に依存する。

このように、「もの・こと」の表情は数えきれないほど存在し、そのどれもが他のものよりもより真であることはない。

もしわたしが世界に目を開いている日本人に話しかけるとすると、彼は我々に与えられたものの特定の側面や姿を相手にすることになる。

これらの側面の数は無限である。

従って、誰も――神でさえも――すべての側面を同時に見ることはできない。

さらに、排除の原理が介入する。

わたしは、他のやり方で「もの・こと」を見ることを止めることによってのみ、ある見方でそれらを見ることができない。

もし、わたしが画家として森を見る場合、木こりとしては森を見ていない。

もし、ミツバチとして森を見る場合――ミツバチに「わたし」はないので、言葉のアヤなのだが――、わたしは鳥として森は見ていない、などである。

このように、感覚に与えられているものの全体は、数えきれない世界に分けられている。

宇宙学者は、技術化された彼らの感覚に与えられ、彼らが「宇宙」と名付けた自身の世界を持っている。

それは発見とともに変わり、いずれにせよ、一般的なすべての世界のように、無限の時間の中で滅びやすい。

自然は残り、自然と共に、限りない創造性と永遠の時間が残るのである。







2021年11月13日土曜日

「科学の形而上学化」を文化に、そして今なぜ改めて「科学精神」なのか
















「医学のあゆみ」誌に連載中のエッセイ『パリから見えるこの世界』の第103回が出ました

 

「科学の形而上学化」を文化に、そして今なぜ改めて「科学精神」なのか

 医学のあゆみ(2021.11.13)279(7): 759-763, 2021 


現代を取り巻く根本的な問題についても触れています

ご一読いただければ幸いです

 





2021年11月12日金曜日

コンシュ「形而上学の概要」(16)

























自由は、それ自身が変質する自然の最も崇高な創造である。

自由は、一つの存在すなわち真の判断を下すことができる人間が出現するやいなや世界に現れる。

なぜなら、もしこれらの判断が、判断する「もの・こと」を単に見ることによってではなく、種々の原因によって決定されていたとすれば、どうしてその判断が真であるだろうか。

科学は、原因による決定について精神の自由を前提にしている。

確かに、真として与えられる判断が多様な影響が原因でそうならないこともある。

このような影響から解放され、開かれたものの中で「もの・こと」の真理に従うまでは、それらの判断が実際に真になるという幸運はない。



わたしが「開かれたもの」というのは、ハイデッガーが Dasein と名付けたもののことである。

 Dasein が「在る」(sein)という言葉を含んでいるからではなく、単に人間の中にある開いた構造を意味するものとして取り上げている。

ベルクソンは目を開く。

「イメージの前にわたしはこうしている・・・わたしの感覚を開く時に知覚され、閉じた時には知覚されないイメージの前に」(『物質と記憶』)。

ベルクソンはデカルトの『省察』の第一の読者として語る。

外界の現実の問題が迫っている。

「開かれたもの」という概念から完全に離れた間違った問題。

わたしは自分の目を開ける。

わたしの目に入るのは、木のイメージではなく、木である。

そしてわたしは、「それは木である」、「それはシナノキである」、「雲がある」、「ここに家がある」などと言うことができる。

わたしは世界の中にいる。

わたしが世界に目を開いた時、無数の確認される判断を下すことができ、それは真の判断である。

「ひらかれたもの」とは、真理に開かれていることである。

感覚によって、わたしは真理の国に至ることが可能になるのである。







2021年11月11日木曜日

コンシュ「形而上学の概要」(15)
























その時、性的なものから切り離された愛と因果的な決定の秩序に還元されないものとしての自由が現れる。

性的なものが昇華されたり否定されたりする多様な形の愛が生まれる。

まず熱烈な愛。

種の保存のために、ここにいる男とこの女が結び付く必要は全くない。

ルクレティウスが望んだように、一般性だけで十分なのである。

特定の特異な人間の間の選択された愛の出現は、自然の「計画」にはなかった(もっとも、何の計画もないのだから)、神も人間も予見できなかった動物性の外に人間を引き出す何かである。

それは詩人である自然の超理性的で超自然的な創造である。

この状況は、性が関与せず、動物性を消すこと、精神になることが前提となる精神的な愛(amor amicitiae)でも同じである。

熱烈な愛としての友情は、相互性(「なぜならそれが彼であり、それがわたしであったから」)を求める。

自己・利他愛の上に、無私の捧げる愛、純粋の愛(わたしは経験から言っているのだが)がある。

そこには愛されている存在しかおらず、愛している人とその自我はその関係に何の役割も担っていない。

このような愛は絶対的なものである。

愛されている存在の変化によって変わることはない。

このように、キリスト教における神は罪びとを愛するのである。

しかし、純粋な愛は人間の愛でもあるだろう。

ここでは母親の愛は脇に置くことにする。

おそらく、それは精神の本質の問題だろうが、すでに動物で見られるものの延長から来るものである。









2021年11月10日水曜日

コンシュ「形而上学の概要」(14)



















自然の創造性はどういうものだろうか。

自然はその創造を前もってプログラムすることができない。

なぜなら、自然は、例えばカリフラワーが存在する前にカリフラワーなるものをどのようにして「知る」のだろうか。

自然は詩人以上には自分がやっていることがどのようなものになるのかを知らない。

ヴィクトル・ユーゴーは自分が創るまえには『眠るボアズ』(Booz endormi)がどのようなものになるのか知らなかった。

デカルトによれば、科学は実用的な応用によって「我々を自然の主人であると共に所有者にすること」ができる。

彼は恰も人間が自然の一部ではないかのように、人間と自然を対立させる。

その場合、自然は鉱物であり、動物であり植物である。

創造主である神の役割を確保するために、自然の創造性を制限する。

しかし、自然は人間をも創造したのである。

もし、自然を単に物質世界や動植物界の存在に表れている力だと理解するのであれば、人間と共に自然はそれ自身を超え、昇華していると言わなければならない。





2021年11月9日火曜日

コンシュ「形而上学の概要」(13)

























また、アナクシマンドロスが「もの・こと」が生み出されることを記述するやり方は、今日でも我々に語り掛ける。

生きている自然は一つの生身の存在ではないが、生み出すことができる。

Gonimos(γόνιμος)とは「生み出すことができる」ということを意味している。

この言葉はアナクシマンドロスのものなのか。

わたしにはそれらしく見えた。

自然は優れてGonimonである。

すべての質の混ぜ合わせが試される永続的な混合の後に無数の特別の自然(gonimoi)が現れる。

そのそれぞれは熱いものと冷たいものの何らかの関係ではなく、生産的な正しい関係を実現している。

「熱いもの」は生にとって望ましいポジティブな極で、冷たいものはその反対である。

熱いものは生に恩恵を与えるが、冷たいものによって和らげられる。

冷たいものは熱いものによって緩和されない限り、死を優遇する。

Gonimoi は実現可能な生産の結果で、「世界」(cosmoi)と名付けられる。

それは有限性の特徴を持つ特別の自然なので、無限とは程遠いその力はある時間の枠を超えては広がることはできない。

従って、世界は滅びやすいのである。

それは我々の宇宙を含めた宇宙にしても同じであるとわたしには思えてくる。

ビッグバンの宇宙は始まりがあったので、終わりがあることは明らかである。






2021年11月8日月曜日

コンシュ「形而上学の概要」(12)































我々は無限の中で、個々の決定を想定することができないのは明らかである。

そこにいないだろう他のものは除き。

それは、最良の原理のような選択の原理を与えることで、それゆえ有神論のような何かに向かうことだろう。

しかし、無限の自然は何もできない、そしてそれは最早自然ではない、あるいは何でもできる。

数えきれない世界が(共存し、連続して)複数あるという考え方は、自然の無限性とここに在るこの世界の間の仲介を保証している。

今日、ビッグバンの宇宙は複数ある世界の一つで、それは我々のものでもあるとわたしは言うだろう。

アナクシマンドロスの直観は、宇宙論学者の発見や理論と響き合っている.

無限の自然のことを「そこからすべての空とそこにある世界が生まれる」と言ったアナクシマンドロスは「かなり詩的な言葉で」表現したと、シンプリキオスは言った。

今日、形而上学者が自然の無限性や、ビッグバンの宇宙をあらゆるところから取り囲む無数の宇宙について思索する時、彼は「詩的にする」(poétiser)とも言えるだろう。

なぜなら、彼の頭には彼が使う言葉に科学的な要素を与える方程式がないからである。

科学は進歩するが、詩には全く進歩がない。

ホメロスが超えられることはなかったのである。







2021年11月7日日曜日

コンシュ「形而上学の概要」(11)
























アナクシマンドロスにあるのは、無限と共に、エピクロスにわたしが見ることがなかった生命に溢れた自然である。

確かに、ヘラクレイトスには普遍的で永遠の生命への直観がある。

彼は、「この世界は・・・常に在ったし、現在も将来もそうである。火は常に生きており、適度に点火し、適度に消火する」と言っている。

しかし彼は、世界の囲いの中に生命と閉じ込める。

このようなことはアナクシマンドロスにはない。

生命の創造性を世界という大きな組織体の創造だけに限定するのは、アナクシマンドロスにとって生命の本質に矛盾するように見える。

おそらく、ヘラクレイトスの世界においては、すべてのもの・ことは常に新しく流れていて、「同じものに永遠に回帰する」という馬鹿げたことに類似したものは何もない。

しかし、もし多様性が無限に進むとすれば、それは一般的な構造の側面にあり、生成の結果ではなく単に配置されるだけである。

アナクシマンドロスの自然主義は進化論的である。

人間は生成した人間の結果であり、世界は生成した世界の結果である。

しかし、永遠で無限の自然(phusis apeiros)からここにある我々の世界へどのように移行するのだろうか。








2021年11月6日土曜日

古代ギリシアの "Phusis" の意味















このところコンシュさんの話を聴いているが、その中で最も重要な概念の一つに "phusis"(自然)があることが分かってきた

"phusis"は、存在するすべてのもの・こと、無限、すべてを包み込むものなどと紹介されていた

ここでもう少し詳しく、この概念についての研究を眺めてみたい

ある研究によれば、4つの意味が提示されているという


一つは、原初のものという解釈である

イオニアの哲学者はすべてのものの一つの"phusis"を探究したという意味合いで使われているという

彼らが世界を構成すると考えた水とか火とか空気などのアルケー(始まりとか原理)に当たるものだろう


第二は、過程の意味で使われている

ソクラテス以前の哲学者は過程に重点を置いたと考える人たちの解釈である

例えばコリングウッドは、彼らにとっての自然は、世界とか世界を構成するものを意味するのではなく、それらのものに内在するそのように行動させる何かであると考えていた


第三は、原初のものと過程の両方が含まれているとする解釈である

一方で成長とか出現を意味し、他方で成長した元のところ(起源)を意味する"phuomai"という動詞と同義であると理解する人がいる

ターレスにとって水は"phusis"と同義で、アルケーであると同時に完成した現実を生み出す要素と見ていたという


そして第四は、起源であり、過程であり、結果だとする解釈である

それは、アルケー(すべてを生み出すもとにあるもの)であり、成長の過程であり、その過程の最終産物である

つまり、宇宙の起源と成長、最初から最後までを含んでいる

宇宙の起源と進化、そしてその結果としての今見えている世界のすべてに興味を示す解釈と言えるだろう

そう考えると、この言葉に含まれる世界はかなり壮大なものになる

頭の中を極限まで広げなければならないことが改めて分かる






2021年11月5日金曜日

コンシュ「形而上学の概要」(10)




しかしながら、わたしはヘラクレイトスと別れた。

なぜなら、彼の見方によれば、留まるものは時間や自然だけではなく、世界もそうだからである。彼はこう言っている。

「すべての人にとって同じこの世界、神も人間もそれを作らなかった。それは常に在ったし、現在も在り、将来も在るだろう・・・」

世界で起こるすべてのことは法則により支配されているので、如何なる度を越したことも世界の安定を危険に晒したり、その骨組みを破壊したりすることはできない。

しかし、もし世界が構造化すなわち組織化されているとすれば、わたしとしては世界を「完成した、終わった」(fini)ものとしてしか考えることができない。

それ故、それ自身によって自らを説明することができず、わたしが「無限である」(infinie)と言った「自然」という概念に戻るのである。


すべてのものことの起源には、必然的に無限なるものがあり、一神教の神は文化的な対象でしかないので、無限性は自然の無限性しかあり得ない。

我々は、ライプニッツが「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」と問うたように、自然を惑星や星や世界のような完成した何かと理解するのかを自問できるだろう。

しかし、無限なるものは他のものことに依存しない。

なぜなら、他には何も存在しないからである。

「なぜ何もないのではなく、自然はあるのか」と問うことはできない。

なぜなら、存在するすべてである自然は、他のものからは説明されないからである。

無限の自然が元々の源泉であること、源泉から放たれるもの以上には何もないこと、それは哲学の始まり以来、アナクシマンドロスによって知られていたことである。








2021年11月4日木曜日

コンシュ「形而上学の概要」(9)













しかし、存在の解体は生成以外の何ものでもない。

それが、ピュロンの弟子アイネシデモスと彼自身の弟子が「懐疑主義的方向性はヘラクレイトスの哲学に至る道(hodos)であると言っていた」理由である。

プラトンは我々に、ヘラクレイトスによれば「すべては譲り、ちゃんと維持するものは何もない」と言った。

すべて(panta=すべてのものこと)」という言葉は、何らかの実体を持つすべてと理解しなければならない。

この人間、この家、この本、この景色、この色、この友情など。

シュテファン・ツヴァイクは『過去への旅』の中で、愛は時間には逆らえないことを我々に示した。

すべてのものこと、存在、性質あるいは存在の在り方を「譲らせる」力とは、実際のところ、ヘラクレイトスがaiônと名付けた永遠の時の力である。

すべてが譲り、すべてが流れるが、時は流れない。

非永続性は普遍的なのである。

それは真に存在が在ることを許さない。

しかし、非永続性自体は不変である。

生成の法則は衰退することがない。

それは永遠である。

それでは、「留まり、変わらない」ものは何だろうか。

すべてのものことの実質のなさや虚飾は終わり、非永続性、変化、未来から過去への絶えざる変容が残る。

それが時間の作用である。


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懐疑主義者は仮象は疑わなかったが、実体とか存在というものを疑った

存在が消えた後に残ったのが生成だという

全てが移ろい行くヘラクレイトスの世界になったのである

永続するものは何もない

すなわち、生成は永遠に続くことになる

そして、このような力に抗するのが永遠のとき(aiôn)の力だという

この言葉は「生命の力」、「運命」、「時代」、「世代」とも訳されている

古代ギリシアの時間の概念には「アイオー」の他に、直線的に続く「クロノス」、時宜を得た時を意味する「カイロスがある






2021年11月3日水曜日

コンシュ「形而上学の概要」(8)
























しかし、我々自身が無であるという感情を持つことなく、「なぜ我々は存在していると名乗ることができるのか」と自問することなく、無限の中で自分自身のことを考えることはできない。

ものが存在していないように見えることを否定することなく、日常的な存在の中で、我々は途方もない時間を忘れ、「時間割」に見合うように時間を矮小化している以上、哲学者としてわたしは「存在」を信じ続けることができないように見えた。

わたしはそこに、日常性の幻想しか見ていなかったに違いない。

懐疑主義自体は先まで十分に入っていなかった。

少なくともそれについて与えられたいつもの解釈の中で、懐疑主義は日常の幻想に囚われたままであった。

それはわたしが「現象主義的」と名付ける解釈である。

ブロシャールは、懐疑主義者は「現象は疑わず、仮象(見かけ)とは異なるものとしての現実(実体)だけを疑う」と言った。

ウォディントンによれば、ピュロンは「自分に表れるものを確認することで満足し、存在するものに関しては自身の判断を保留した」という。

さらにウォディントンは言う。

従ってピュロンは、「彼以前にすべてのギリシアの哲学者によって認識されていた『存在するもの』と『見えるもの』との区別」を利用した。

しかし、わたしが示したように、ピュロン主義の鍵になるフォルミュールによれば、「何ものもこれよりもよりそうであることはないとか、一方でも他方でもない」以上――ロバンが指摘したように「何の保留もなしに」そう言われているが――、ピュロンが目指す形而上学やアリストテレスの形而上学にとって本質的である存在と仮象の区別がなくなる。

そして、純粋な仮象の概念を物自体に対抗する現象の概念に置換する必要がある。

ピュロン主義的な意味における仮象は、(存在)「の」仮象でも、(存在、主体)「のための」仮象でもなく、そこから何も残さない仮象、普遍的あるいは絶対的な仮象である。








2021年11月2日火曜日

コンシュ「形而上学の概要」(7)
























「自然」という言葉の中には、エピクロスの Peri phuseôs(『自然について』)がわたしに与えてくれたもの以上のものがある。

おそらくエピクロスは、「自然」がすべての「もの・こと」の絶対的源泉であり、すべての「もの・こと」を発明することによりそれ自体で創造することを見ていた。

しかし、彼は「クリナメン」(clinamen:原子の予想できない揺れ)を除けば、「自然」を物質に還元することにより極端に活力のないものにし、それが彼を「唯物論者」としている。

全てが帰着するものである原子が、少なくともそれがデモクリトスにおけるような数学的(幾何学的)存在ではなく物質的存在ならば考えさせることはないので、この物質への還元には何の価値があるのか。

実際のところ、もし原子が何からできているのかを問えば、空ではなく満ちていると言われる。

しかし一体、何で満ちているのか。

自然は無数の微小で考えも及ばないものに分割され、偶然によって数多くの世界に組織化される。

「宇宙」あるいは「全体」(to pan)の量的概念は、命ある統一性が認められていない「自然」の質的概念に優っている。

生命は原因ではなく、偶然が齎す不確実な果実に過ぎないように見える。



しかし、ルクレティウスとその師のお陰で、わたしは無限の宏大さの中の一つの点として自分自身を考えることに慣れた。

そして、哲学するとは、自分自身を考え、無限の核心にあるすべての「もの・こと」を考えることであると信じるようになった。

空間の無限は明らかである。

時間の無限については、それほど明確ではなくなるが、わたしはモンテーニュの言葉に思いを致す。
「なぜ我々は、永遠の夜の無限の流れの中で閃光にしか過ぎないこの瞬間の存在であると名乗るのか」
そこから、モンテーニュは時間を無限で永遠なものとして捉えていたことが分かった。

そしてそれは、わたしにとっても同様であった。










2021年11月1日月曜日

コンシュ「形而上学の概要」(6)

































わたしの精神のギリシア的素質により、古代ギリシア人の研究の中にしか、真の満足を見付けることができなかった。

わたしの講義では、モンテーニュが言う古典の偉大な作家に相応しい場を与えたが、彼らの体系が哲学を犠牲とする宗教と理性の間の妥協でしかない場合、わたしはそれに打ち込むことができなかった。

彼らと共には真理の国にいることはないと感じたのである。

自然もそこに欠けていた。

わたしが自然に出会ったのはモンテーニュの中ではない。

自然はそこにあったかもしれないが、それ自体として充分に考えられていなかった。

モンテーニュによって、わたしの精神の中で、神学・哲学者という考えを一掃し、デカルト、ライプニッツ、カントらの著作が没頭する間違った問題を取り除くことが可能になった。

それは自然というものの啓示を受ける準備をさせ、ルクレティウスの詩、すなわちエピクロスと共にその啓示を受けたのである。

わたしは主体の哲学を断念し、「わたし」というものを忘れ、思考が境界のない宏大さにまで拡大するようにさせた。

わたしは農家の子供時代、自然の只中で生きてきたが、仕事の束縛により、公平で自由で瞑想的な視点を奪われた。

それにも拘らず、わたしが持っていた直観が、わたしの枕頭の書であるパスカルの『パンセ』の断片72(Br.)にある素晴らしい表現を発見し、わたしが押し殺した直観が、命を吹き返し、省察を豊かにするようになったのである。