わたしの精神のギリシア的素質により、古代ギリシア人の研究の中にしか、真の満足を見付けることができなかった。
わたしの講義では、二モンテーニュが言う古典の偉大な作家に相応しい場を与えたが、彼らの体系が哲学を犠牲とする宗教と理性の間の妥協でしかない場合、わたしはそれに打ち込むことができなかった。
彼らと共には真理の国にいることはないと感じたのである。
自然もそこに欠けていた。
わたしが自然に出会ったのはモンテーニュの中ではない。
自然はそこにあったかもしれないが、それ自体として充分に考えられていなかった。
モンテーニュによって、わたしの精神の中で、神学・哲学者という考えを一掃し、デカルト、ライプニッツ、カントらの著作が没頭する間違った問題を取り除くことが可能になった。
それは自然というものの啓示を受ける準備をさせ、ルクレティウスの詩、すなわちエピクロスと共にその啓示を受けたのである。
わたしは主体の哲学を断念し、「わたし」というものを忘れ、思考が境界のない宏大さにまで拡大するようにさせた。
わたしは農家の子供時代、自然の只中で生きてきたが、仕事の束縛により、公平で自由で瞑想的な視点を奪われた。
それにも拘らず、わたしが持っていた直観が、わたしの枕頭の書であるパスカルの『パンセ』の断片72(Br.)にある素晴らしい表現を発見し、わたしが押し殺した直観が、命を吹き返し、省察を豊かにするようになったのである。
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