2021年11月24日水曜日

コンシュ「哲学的自然主義」(4)

























今朝、今年初めて白いものを見た

ふわっとした大きな雪が横殴りの風に乗って落ちてきた

遂に新しい季節に入ってきたようだ

今日もコンシュさんを読み進みたい


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従って、形而上学は自由に立脚している。

如何なる哲学者も――それが自然主義者であれ唯物論者であれ――否定することができないものが1つあるとすれば、それは自由である。

なぜなら、自由がなければそれ自身の体系が不可能になるからである。

と言うのも、原因によって決定された彼の判断は、真理の視点から見ればそうではあり得ないので(なぜなら、真理は原因ではなく、世界の中の何かではないからである)、彼は真理を語ることができない。

鸚鵡は明るくなる時、「夜が明ける」と言うように条件付けできる。

しかしわたしは、明るくなるのを見たので「夜が明ける」と言う。

もしわたしの判断がすべての因果関係――社会学的、生物学的、心理学的などの――から自由でないとすれば、それが真となるにはどんな偶然が必要となるだろうか。

わたしは「法律上の」自由と理解する。

なぜなら、実際には多くの判断が利益、欲求、気分、影響、習慣に隷属する表現に過ぎないからである。

なぜダミアンは「神は存在する」と言うのか。

彼はそのことについて何も知らないが、そう人に言われたので彼が繰り返しているだけである。

彼はなぜ、「民主主義は政治体制の中で最良のものである」と言うのだろうか。

彼はその理由を知らない。

その判断は真かもしれないが――それを認めよう――、彼は真理の感覚を持っていない。

なぜなら、彼は理性と省察の明白さを根拠にしていないからである。

普遍的な決定論を主張する者は誰でも自己矛盾に陥る。

なぜなら、決定論が普遍的でない限り、決定論が普遍的であることを真として主張することができないからである。








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