しかし、この真理には範囲(horizon)がある。
範囲の特徴は、由来するギリシア語の horizein が示すように、境界を定めることである。
しかし、範囲であるこの境界や限界であるものは、我々がいる場所に依存する。
このように、「もの・こと」の表情は数えきれないほど存在し、そのどれもが他のものよりもより真であることはない。
もしわたしが世界に目を開いている日本人に話しかけるとすると、彼は我々に与えられたものの特定の側面や姿を相手にすることになる。
これらの側面の数は無限である。
従って、誰も――神でさえも――すべての側面を同時に見ることはできない。
さらに、排除の原理が介入する。
わたしは、他のやり方で「もの・こと」を見ることを止めることによってのみ、ある見方でそれらを見ることができない。
もし、わたしが画家として森を見る場合、木こりとしては森を見ていない。
もし、ミツバチとして森を見る場合――ミツバチに「わたし」はないので、言葉のアヤなのだが――、わたしは鳥として森は見ていない、などである。
このように、感覚に与えられているものの全体は、数えきれない世界に分けられている。
宇宙学者は、技術化された彼らの感覚に与えられ、彼らが「宇宙」と名付けた自身の世界を持っている。
それは発見とともに変わり、いずれにせよ、一般的なすべての世界のように、無限の時間の中で滅びやすい。
自然は残り、自然と共に、限りない創造性と永遠の時間が残るのである。
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