2021年11月28日日曜日

コンシュ「哲学的自然主義」(8)































サルトルは、わたしを選ぶことによってわたしは人間を選択する、と言った。

それは正しい。

しかし、彼はそれを厳密に道徳的な意味で理解した。

ところが、人間の意味は「もの・こと」の全体性のレベルで決定される。

創造主の神が存在する、しないで、死を超えた生の希望が正当化されたり、されなかったりする。

有神論であれ、無神論であれ、証拠を引き合いに出すことができないので、これらの形而上学的オプションの選択はそれぞれの自由に任されている。

ジュール・ヴュイマン(Jules Vuillemin)は「哲学において理性的な決定の基準はない」と言った。

わたしが正確に言うとすれば、形而上学においては、となる。

――なぜなら、道徳においてはそうはならないからである(わたしは倫理とは言っていない。二つの概念をわたしが混同しないようにしているものである)

わたしを選択することにより、わたしは人間を選択すると言うことは、もしわたしのためにこのようなオプションを選ぶとすれば、あなたにもそのオプションを選ぶことになる。

もしわたしが無神論者であれば、わたしにとってもすべての人間にとっても、すべては死と共に終わるとわたしは考える。

もしわたしが創造主である神を信じているならば、永遠の魂をわたしが与えるのはわたしと共にあなたでもある。

なぜなら、形而上学的選択には普遍的な意味があるからである。



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前半の「形而上学には理性的な決定基準はない」というところと、後半の「形而上学的選択には普遍的な意味がある」というところがわたしの中ではうまく繋がらなかった

規準がないところで選ばれたものに普遍的な意味があるとすることに違和感を覚えたのだが、、

もう少し時間をおいて考えることにしたい







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