しかしながら、わたしはヘラクレイトスと別れた。
なぜなら、彼の見方によれば、留まるものは時間や自然だけではなく、世界もそうだからである。彼はこう言っている。
「すべての人にとって同じこの世界、神も人間もそれを作らなかった。それは常に在ったし、現在も在り、将来も在るだろう・・・」
世界で起こるすべてのことは法則により支配されているので、如何なる度を越したことも世界の安定を危険に晒したり、その骨組みを破壊したりすることはできない。
しかし、もし世界が構造化すなわち組織化されているとすれば、わたしとしては世界を「完成した、終わった」(fini)ものとしてしか考えることができない。
それ故、それ自身によって自らを説明することができず、わたしが「無限である」(infinie)と言った「自然」という概念に戻るのである。
すべてのものことの起源には、必然的に無限なるものがあり、一神教の神は文化的な対象でしかないので、無限性は自然の無限性しかあり得ない。
我々は、ライプニッツが「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」と問うたように、自然を惑星や星や世界のような完成した何かと理解するのかを自問できるだろう。
しかし、無限なるものは他のものことに依存しない。
なぜなら、他には何も存在しないからである。
「なぜ何もないのではなく、自然はあるのか」と問うことはできない。
なぜなら、存在するすべてである自然は、他のものからは説明されないからである。
無限の自然が元々の源泉であること、源泉から放たれるもの以上には何もないこと、それは哲学の始まり以来、アナクシマンドロスによって知られていたことである。
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