そこで、「なぜ自然であって、神ではないのか」、「なぜ何もないのではなく、自然があるのか」というような質問を覚悟しなければならない。
(ギリシアの)哲学者にとって理解しがたい人種がいる。
それが神を信じる人たちだ。
ニーチェが言ったように、一神教の神の「ようなものは一切」存在しないということは自明の理である。
しかし、「神は存在する」という命題には反駁できない。
従って、信者は真理の中にいる見込みがあると信じる「振りをする」のが適切なのである。
神は存在するという幻想が人生への信頼の条件であるように見える以上、それは信者を自身の幻想と共にあるようにするためである。
わたしが「他者の意図に対する懐疑主義」と呼ぶものがこれである。
オーギュスト・コントのように、どの宗教でもよいが、その誤りをわたしは確信した。
(「愛の宗教」は例外だが、それは神なき宗教である。)
説得するために、わたしは議論できる。
確信するために、わたしは証明できない。
わたしはすべての議論を避けるために、信者をその信仰のままにしておく。
なぜなら、神への信仰は啓示に基づいているのに対して、議論は理性以外の権威を認めないからだ。
信者とは会話はできるが、議論はできないのである。
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