2021年11月12日金曜日

コンシュ「形而上学の概要」(16)

























自由は、それ自身が変質する自然の最も崇高な創造である。

自由は、一つの存在すなわち真の判断を下すことができる人間が出現するやいなや世界に現れる。

なぜなら、もしこれらの判断が、判断する「もの・こと」を単に見ることによってではなく、種々の原因によって決定されていたとすれば、どうしてその判断が真であるだろうか。

科学は、原因による決定について精神の自由を前提にしている。

確かに、真として与えられる判断が多様な影響が原因でそうならないこともある。

このような影響から解放され、開かれたものの中で「もの・こと」の真理に従うまでは、それらの判断が実際に真になるという幸運はない。



わたしが「開かれたもの」というのは、ハイデッガーが Dasein と名付けたもののことである。

 Dasein が「在る」(sein)という言葉を含んでいるからではなく、単に人間の中にある開いた構造を意味するものとして取り上げている。

ベルクソンは目を開く。

「イメージの前にわたしはこうしている・・・わたしの感覚を開く時に知覚され、閉じた時には知覚されないイメージの前に」(『物質と記憶』)。

ベルクソンはデカルトの『省察』の第一の読者として語る。

外界の現実の問題が迫っている。

「開かれたもの」という概念から完全に離れた間違った問題。

わたしは自分の目を開ける。

わたしの目に入るのは、木のイメージではなく、木である。

そしてわたしは、「それは木である」、「それはシナノキである」、「雲がある」、「ここに家がある」などと言うことができる。

わたしは世界の中にいる。

わたしが世界に目を開いた時、無数の確認される判断を下すことができ、それは真の判断である。

「ひらかれたもの」とは、真理に開かれていることである。

感覚によって、わたしは真理の国に至ることが可能になるのである。







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