2021年11月22日月曜日

コンシュ「哲学的自然主義」(2)

































それは結局、形而上学と特定の形而上学、この場合、唯心論的形而上学を混同していることになる。

わたしは、形而上学を「もの・こと」の全体性に関する言説であると理解している。

あるいは、「全体」という言葉を好むのであれば、現実の全体についての言説としてもよい。

この「全体」とか「現実」という概念は、やはり問題である。

「全体」とは、有機的な全体、繰り返される総計、あるいは寄せ集めることができない多数性のことである。

そして「現実的な」ものとは、現実の度合い(の違い)を伴ったり伴わなかったりするプラトンとヘーゲルの "ontôs on"(現実に存在するもの のようなものであるとわたしは言いたい。

その上で、唯物論者のエピクロスはプラトンと同程度に形而上学者である。

エピクロスが全体としての現実の表象を我々に提示したからだ。

形而上学の対象は現実の全体である、とわたしは言った。

しかし、その対象は分かち難く人間自身でもある。

人間の問題とは何なのか。

人間とは何かを知るためには、人間が全体の中で意味するところを知らないければならない(だろう)。

超自然的な現実があるのか、あるいは自然しか存在しないのか。

それぞれの立場によって、死の意味が変わってくる。

もう一つは「人間とは何か」という問いに対する答えであり、もう一つは人間が自分自身に対して持っている考えである。

すなわち、人間には意味や運命があるのか、あるいは植物や動物以上の運命や意味はないのか。

それは「もの・こと」の全体において人間に帰せられる場所は何なのか、すなわち人間存在の地位は何なのかを知ることである。

これは権利の問題である。

人文科学は事実の問題しか解決できない。

科学的視点から見れば、人間についてこれほど知識を得たことはなかった。

しかし、形而上学的視点から見れば、これほど無知であったこともなかった。

マックス・シェラーは「人間は、人間とは何かを最早知らない」と言い、こう付け加えた。

「しかし同時に、人間はそれを知らないことを『知っている』」。







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