その時、性的なものから切り離された愛と因果的な決定の秩序に還元されないものとしての自由が現れる。
性的なものが昇華されたり否定されたりする多様な形の愛が生まれる。
まず熱烈な愛。
種の保存のために、ここにいる男とこの女が結び付く必要は全くない。
ルクレティウスが望んだように、一般性だけで十分なのである。
特定の特異な人間の間の選択された愛の出現は、自然の「計画」にはなかった(もっとも、何の計画もないのだから)、神も人間も予見できなかった動物性の外に人間を引き出す何かである。
それは詩人である自然の超理性的で超自然的な創造である。
この状況は、性が関与せず、動物性を消すこと、精神になることが前提となる精神的な愛(amor amicitiae)でも同じである。
熱烈な愛としての友情は、相互性(「なぜならそれが彼であり、それがわたしであったから」)を求める。
自己・利他愛の上に、無私の捧げる愛、純粋の愛(わたしは経験から言っているのだが)がある。
そこには愛されている存在しかおらず、愛している人とその自我はその関係に何の役割も担っていない。
このような愛は絶対的なものである。
愛されている存在の変化によって変わることはない。
このように、キリスト教における神は罪びとを愛するのである。
しかし、純粋な愛は人間の愛でもあるだろう。
ここでは母親の愛は脇に置くことにする。
おそらく、それは精神の本質の問題だろうが、すでに動物で見られるものの延長から来るものである。
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