「なぜ何もないのではなく、自然があるのか」という問いは受け入れられないとわたしは言った。
ライプニッツが「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」と問うた時、彼が考えていたのは、どんな「もの」――それは神を含むのだが――でもよい何かではなく、「宇宙」あるいは「世界」であった。
彼は「世界が存在するという事実の完璧な理由」を問うたのである。
我々が見ることができるように、この問いは創造論の形而上学においては意味がある。
しかしそれは、「なぜ何もないのではなく、存在があるのか」という問いの根源においては理解されていない。
ライプニッツは神の中に世界の存在理由を見ている。
我々はそれを自然の中に見る。
しかし、「自然が存在する理由は何なのか」と我々は問う。
もし自然が無限で、永遠で、すべてを包み込むものとして考えられるとすれば――なぜなら、自然しかなく、自然は外部を持たず、他のものには如何なる空間もないのだから――、我々は自然それ自体以外にはその存在を説明する理由を見付けることができないのである。
そのような理由を探さなければならないのだとすればだが。
しかし、その理由を探す意味はないだろう。
なぜなら自然の存在理由を見出すことからなる回答は・・・自然自体の中にその問いを残したままにするからである。
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