しかし、我々自身が無であるという感情を持つことなく、「なぜ我々は存在していると名乗ることができるのか」と自問することなく、無限の中で自分自身のことを考えることはできない。
ものが存在していないように見えることを否定することなく、日常的な存在の中で、我々は途方もない時間を忘れ、「時間割」に見合うように時間を矮小化している以上、哲学者としてわたしは「存在」を信じ続けることができないように見えた。
わたしはそこに、日常性の幻想しか見ていなかったに違いない。
懐疑主義自体は先まで十分に入っていなかった。
少なくともそれについて与えられたいつもの解釈の中で、懐疑主義は日常の幻想に囚われたままであった。
それはわたしが「現象主義的」と名付ける解釈である。
さらにウォディントンは言う。
従ってピュロンは、「彼以前にすべてのギリシアの哲学者によって認識されていた『存在するもの』と『見えるもの』との区別」を利用した。
しかし、わたしが示したように、ピュロン主義の鍵になるフォルミュールによれば、「何ものもこれよりもよりそうであることはないとか、一方でも他方でもない」以上――ロバンが指摘したように「何の保留もなしに」そう言われているが――、ピュロンが目指す形而上学やアリストテレスの形而上学にとって本質的である存在と仮象の区別がなくなる。
そして、純粋な仮象の概念を物自体に対抗する現象の概念に置換する必要がある。
ピュロン主義的な意味における仮象は、(存在)「の」仮象でも、(存在、主体)「のための」仮象でもなく、そこから何も残さない仮象、普遍的あるいは絶対的な仮象である。
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