ショーペンハウアーは、「わたしは『形而上学』を、経験を超えた知識であると自負するすべてのものであると理解している」と書いている。
わたしは「知識」という言葉を忌避する。
現実の全体は絶対的に経験を超える。
従って、形而上学は知識であると装うことは決してできない。
科学だけが我々に知識を与える。
わたしが定義したような形而上学は、科学になることを夢見てはいけない。
科学的ではなく、形而上学は基本的に思弁的なものである。
カントの語法による「思弁」という言葉が、ここではぴったりする。
証拠も証明も形而上学にはその場所がなく、あるのは議論だけである。
しかし、誰でも議論に与える重み(それが決定的であろうとなかろうと)からは自由なので、説得力があるとして一方に従い、他方を無視するのである。
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