2021年11月26日金曜日

コンシュ「哲学的自然主義」(6)



















しかし、わたしが語るこの自由――それは現れたものを純粋に受け入れ、無関係なものを加えることなく見るものを表現する判断を可能にするものだが――、これは依然として因果関係による決定がないことを意味するネガティブな自由でしかない。

これはまた、普遍的な自由でもある。

なぜなら、この自由が内包する開かれた構造――それはハイデッガーが Dasein (現存在)と名付けた構造である――はすべての人間において本質的なものであるからだ。

しかし、この自由にはうっとりさせる側面はあるが、別の側面も持っている。

疎外させるものと言うこともできる因果関係による決定の支配が法的に終わるところは、いわゆる良心の裁きの場である。

自己による自己についての瞑想から出発することにより、純粋に内奥から発する決定が生まれ得る。

その時、自由は個人的な独自の因果関係の出現に委ねられ、そこではそれぞれが自己の原因となる。

なぜなら、ベルクソンがレオン・ブランシュヴィックに「自由は虚しい言葉に過ぎないかも知れないし、心理的な因果関係かも知れない」と書いたように――勿論、原因と結果が同等である物理的因果関係をモデルに基づいて考えるべきではないが、創造的因果性として考えるべきである。

なぜなら、「行為自体により、以前には存在しなかった何かを創造すること」を意味しているからである。





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