医学のあゆみ 245 (6): 541-545, 2013
2022年5月31日火曜日
5月を振り返って
2022年5月30日月曜日
瞑想の一日に
2022年5月29日日曜日
年内に可能か
2022年5月28日土曜日
シェリング『学問論』第8講を読む(つづき)
2022年5月27日金曜日
シェリング『学問論』第8講を読む
「考察の目的」
「キリスト教の根本性格」
「歴史の三つの時代」
「キリスト教の歴史的構成」
2022年5月26日木曜日
シェリング『学問論』のこれまでを振り返る(4)
2022年5月25日水曜日
シェリング『学問論』のこれまでを振り返る(3)
2022年5月24日火曜日
シェリング『学問論』のこれまでを振り返る(2)
2022年5月23日月曜日
シェリング『学問論』のこれまでを振り返る(1)
2022年5月21日土曜日
『免疫学者のパリ心景』のコラムのご紹介
COLUMN 1.古典を読むという「実験」が欠かせないわけ
COLUMN 2.二つの闇の間の閃光
COLUMN 3.免疫の本質に至る旅
COLUMN 4.「科学と哲学」を考えるカフェとフォーラム
COLUMN 5.エッセイシリーズから見えてきた好みの哲学者
2022年5月20日金曜日
『免疫学者のパリ心景』第5章のご紹介
1.シュペングラーが考えた技術、文化、文明
2.ハイデッガーによる「テクネ」から現代を考える
3.プラトンが問いかけた「知る」ということ
4.徳認識論と「科学の形而上学化」
5.「わたしの真理」から「絶対的真理」への道を想像する
6.真理の探究と幸福、そしてこの生の意味
2022年5月19日木曜日
『免疫学者のパリ心景』第4章のご紹介
1.オーギュスト・コントの「3段階の法則」
2.「科学の形而上学化」、あるいは「4段階の法則」
3.そもそも形而上学とは何をする学問なのか
4.なぜ「科学の形而上学化」が必要になるのか
5.意識の3層構造と第3層の重要性
6.「科学の形而上学化」の実践
2022年5月18日水曜日
『免疫学者のパリ心景』第3章のご紹介
1.「ダーウィン2009」、そしてダーウィンが試みたこと
2.ジャン・バティスト・ラマルクの思想と人生
3.エルンスト・ヘッケルが求めた一元論
4.イリヤ・メチニコフとジュール・ホフマンと自然免疫
5.トルストイの生命観と科学批判
6.ルドヴィク・フレックが見た科学という営み
7.パウル・カンメラーとウィリアム・サマリン、あるいは正統から追われた科学者
8.ニールス・イェルネという哲学的科学者
9.フランソワ・ジャコブ、あるいは科学の先にあるもの
10.フィリップ・クリルスキーが考える専門と責任の関係
本章も第2章と同様、現実との接触から触発されて過去に向かう過程を追ったものである
そこから見えてくる科学という営みの特徴、そこに生きる科学者の生身の姿が描かれている
科学者は科学界という社会に生きている
それだけではなく、これまでは見えなかった人間社会との関係の中に生きざるを得ない
そのことを真に――すなわち、哲学的に――理解することが求められる時代に入っている
その他にもいろいろなエピソードに溢れているので、至るところに思索への通路を見つけることができるのではないだろうか
そう願って書かれている
お楽しみいただければ幸いである
2022年5月17日火曜日
シェリング『学問論』第7講を読む(つづき)
2022年5月16日月曜日
シェリング『学問論』第7講を読む
「哲学と道徳の対立」
「哲学と宗教の対立」
「哲学とその他の学問との関係」
「哲学の内的組織」
「事実的学問の区分」
「学部相互の関係――カント『学部の争い』に触れて」
それでは始めたい
「哲学と道徳の対立」について
知と行為の対立は、本来存在するのは実践哲学だけであり、理論哲学は存在しないとする似非啓蒙主義の直接の子孫である
道徳とは神に似た心情であり、具体限定的なものを超え、普遍的領域へと高まることである
これは哲学でも同様で、両者は分かち難く一致している
それは哲学が道徳に服属するのではなく、両者は本質的、内的に等しいからである
行為の世界は知の世界と同様にそれ自身絶対的であり、倫理学は理論哲学に劣らず思弁的な学問である
従って、倫理学も哲学同様構成なしには考えることができない
道徳は普遍的な自由――公になった道徳――において客観的なものとなる
この道徳的な組織の構成は、思弁的な理念に基づいている
道徳という概念は長らく消極的なものでしかなかったが、それを積極的な形式において明らかにすることが哲学の仕事になるだろう
思弁を恐れ理論的なものから立ち去り、実践的なものに急ぐとすれば、そこには知におけると同じ浅薄さが表れるだろう
厳密に理論的な哲学研究だけが、行為に強さと道徳的意義を与えるのである
「哲学と宗教の対立」について
これは、古くから言われている理性と信仰の対立という意味ではなく、無限なものの純粋直観としての宗教と純粋直観の同一性から出ていく哲学との対立である
哲学は本性上絶対性の内にあり、その外には出ていかない
哲学は無限なものから有限なものへの移行を知らない
哲学は特殊性を絶対性において、絶対性を特殊性において把握できるという可能性に基づいている
絶対的なものに関わる精神の最高の状態は、できる限り無意識的であり続けるか、全く無垢な状態でなければならない
哲学は絶対的なものの理念を確立し、主観性から理念を解き放ち、できる限り客観的な形式で示そうとしてきた
しかし、絶対的なものは、学問を軽視するための主観化の最後の手段とされてしまった
この種の無能力や意欲のなさが、より高い要求から逃れるために宗教へと撤退するのは不思議なことではない
哲学によって宗教を手に入れることはできないし、宗教が哲学を与えたりすることもできない
内なる美となる自己自身との調和は、客観的能力と関係なく手に入れることができる
主観的なものでしかない内なる美を、外に向かって客観的に示すには別の能力が求められるのである
一切の芸術は、自然と宇宙の直観から出発して再び直観へと帰る
しかし、そう聞いている人も経験主義に従って、個々の現象あるいは特殊なものを自然だと考え、それを感情状態の比喩で表現することになるのである
最高の学問すなわち哲学においては、自然と神、学問と芸術、宗教と詩とが(つまり、あらゆるものが)一つに根源的に結び付けられている
この学問が自分の内であらゆる対立を捨てていれば、自分の外においても他のものと対立することはない
「哲学とその他の学問との関係」 について
哲学は根源知そのものの学問であるが、それは観念的にであって実在的にではない
もし知性が知るという一つの働きによって、絶対的なものの全体を実在的に捉えることができるとすれば、それは知性が有限であることを止め、一切を現実に一として捉えるだろう
根源知の実在的な表現は、哲学以外のすべての知である
両者を分けているのは具体的なものという要素で、分離と区分が後者を支配している
後者の知は個人においては実在的に一にはなれず、人類全体においてのみ一となる
現実の知は根源知の継起的な顕示であるため、必然的に歴史的な一面を持つ
あらゆる歴史は、理念の表現として外的な組織を実現することへ向かう
学問の方も客観的現象と外的な組織を与えようと必然的に努力する
学問のこの外的現象は、根源知すなわち哲学の内的な組織の表現としてのみあり得る
しかし、根源知においては一なるものも、外的現象になると分離して表現されるのである
◉ 「哲学の内的組織」、「事実的学問の区分」、「学部相互の関係――カント『学部の争い』に触れて」 については明日以降に読むことにしたい
2022年5月15日日曜日
『免疫学者のパリ心景』第2章のご紹介
1.ハイデッガー、あるいは死に向かう生物としての人間
2.プラトンの『パイドン』から見える生き方
3.アリストテレスの「エネルゲイア」とジュリアン・バーバーの「時間」
4.ディオゲネスという異形の哲学者
5.誤解され続けた「魂の医者」エピクロス
6.エピクテトスとマルクス・アウレリウス、あるいは現代に生きるストア哲学
7.スピノザへの旅
8.ジョルジュ・カンギレムが考えた正常と病理、そして治癒
9.橋を架けるミシェル・セール
10.哲学に対する二つの態度、あるいは分析哲学と大陸哲学
これらの哲学者や哲学は、いずれもわたしの個人的な経験から調べ始めたものである
2022年5月14日土曜日
『免疫学者のパリ心景』第1章のご紹介
1.フランス語との遭遇
2.抱えていた実存的問い
3.フランスでの「全的生活」を模索する
4.刻印を残した二人の哲学者: ピエール・アドーとマルセル・コンシュ
5.フランスの大学院教育を受けて
5-1.マスターコース
5-2.ドクターコース
この章では、フランスに渡るまでの心の軌跡を振り返り、 大学院教育を受ける過程で感じたことを綴っている
これからフランスでの学びを考えている方にも参考になることがあるのではないかと想像している
また、基本には生きるということについての省察がある
その意味では、この世界に在るすべての方の力になることを願って書かれている
エッカーマンに「書物はもう出来つつある時から運命を持っている」という言葉がある
この伝で行けば、この本もすでに運命付けられていることになるが、それはどのような運命なのだろうか
エッカーマンが願ったように、「幸運に恵まれて多くの人の心に適い、よきことの数々を生み、また広めるに至らんことを」わたしも願いたい
2022年5月13日金曜日
シェリング『学問論』第6講を読む(つづき)
2022年5月12日木曜日
シェリング『学問論』第6講を読む
2022年5月11日水曜日
『免疫学者のパリ心景』の書影届く
第1章 なぜフランスで哲学だったのか
第2章 この旅で出会った哲学者とその哲学
第3章 科学という営み、あるいは科学者を突き動かすもの
第4章 科学と哲学の創造的関係を求めて
第5章 「現代の超克」のためのメモランダム
本の中には、わたしも「エッ」と驚いた遊び心の仕掛け?がある
2022年5月10日火曜日
シェリング『学問論』第5講を読む(つづき)
2022年5月9日月曜日
シェリング『学問論』第5講を読む
「哲学は国家にとって危険であるという非難」「通俗的な悟性の立場からの非難」「功利主義の立場からの非難」「さまざまな学問からの非難」「哲学は流行に属するものだとする非難」
私は下劣なる愚民を憎み遠ざける(ホラティウス)
2022年5月8日日曜日
シェリング『学問論』第4講を読む(つづき)
2022年5月7日土曜日
シェリング『学問論』第4講を読む
「根源知と学問」「特殊知と普遍知の対立」「空間と時間」「理念の認識と数学」「哲学とその直観」
2022年5月5日木曜日
シェリング『学問論』第3講を読む
「本講の意図」「学問・研究の歴史的側面」「学問・研究の芸術的側面」「手段となった学問・研究の弊害」「大学以前の勉学」「語学の学習と文献学」「以下の講義の展望」
2022年5月4日水曜日
シェリング『学問論』第2講を読む
2022年5月2日月曜日
シェリング『学問論』第1講を読む
シェリングの『学問論』を読み進むことにしたい
この講義は1802年夏にイェーナ大学で行われたものである
第1講は「学問の絶対的概念について」となっている
仮に「講義の意図」、「根源知」、「知と行為」の3つのセクションに分けられている
まず「この講義の意図」について
大学に入っても学問研究の羅針盤がない場合、次の2つのケースが想定される
一つは、核心に迫ることなく、無秩序にあらゆる方向を彷徨い歩くケース
二つは、それほど素質がない場合に起こることで、低俗なことに没頭したり、あるいは将来の外面的生活に必要だと考えるものを機械的に、記憶力に頼って詰め込もうとするケース
このようなことが起こるので、研究の目的と方法に関する授業が必要である
もう一つの問題は、専門の中に埋没して普遍的なもの、絶対的なものについて考えが及ばないことである
専門に入る前に、全体の認識、全体における専門の位置の確認が欠かせないのである
「普遍、絶対」に我々の本性を解き放つためには哲学が相応しく、その仕事は哲学にのみ期待できる
「根源知」について
探求の基礎にあるものとして、それ自身において無制約な知、知の中の知である「根源知」がある
それは、観念的なものであると同時に実在的なものであるという統一性で、絶対者の理念である
つまり、あらゆる知が神的存在と結び付こうとする努力であることを示している
個別の知は「根源知」の部分として含まれているので、「根源知」に関わりのない知は実在性も意味もない
この統一性と全体性との精神において考えられていない思想はすべて空虚であり、廃棄されなければならない
「知と行為」について
よく「行動せよ!」という声が聞こえる
そう叫ぶ人は知に不得意な人である
知、特に哲学的な知は、誰でもできることではない
行為の目的となる知とは、どのような知なのか
絶対者の本性は、絶対に観念的なものが同時に実在的なものであることであった
絶対知はどの活動においても、この不可分の二重性がなければならない
時間の中にある知と時間の中にある行為では、知と行為は必然的に分離する
しかし、理念の中では知と行為はその絶対性のゆえに、一である
有限性の中で把握される限り、両者は対立する
知を行為への手段として把握する場合には、必然的に対立が生じるのである
それは知を日常の実践から得た概念でしか捉えられないからである
その場合、学問は何かの役に立つことに貢献すべきだと考える
彼らは絶対的な知と行為の関係を理解していない
そのため、一方を他方の手段と見なすことになるのである
根源知でないような真の知は存在せず、それ自身のうちに神の本質を表現しないような真の行為も存在しない
それは、絶対的な必然性による以外に真の自由は存在しないという関係と同じである