2022年3月13日日曜日

結城登美雄という民俗研究家
































昨日、寝る前にテレビを付けたところ、福島関連の番組が流れていた

暫くすると、そこから聞こえてくる言葉が重く、しっかりしていることに驚いた

普段テレビからは聞こえてこない重さだったからだ

それは、長く深い思索から紡ぎ出されていることを想像させるものであった

体と言葉が完全に一体になっているのである

こういうことも言っていた

「真剣に考えなければならない問題を真剣に考えていないのが日本だ」

確かに、重要な問題を真剣に考えている場面に遭遇することは非常に少ない

解説によれば、46歳の時、広告会社を経営していたが心の空虚さを埋めることができず、会社をたたみ田舎に向かったようだ


ご本人のウィキペディア記事はこちら


本当に久しぶりに山根基世さんの語りを耳にすることができた



結城さんが語るのを聴きながら思い出したことがある

それは、ベルクソンが言っていた対象に迫るための2つの方法である

1つは対象の周りから調べるもので、科学がやる分析に当たるものだが、これでは本質には辿り着かない

もう1つは、共感をもって対象の中に入るもので、こちらは記号を使わないので一気に本質に辿り着ける

実はこれまで、前者は分かるが、後者が一体どういうものなのかはよく分からなかった

こういうことを言うから、科学者からは信用されないのだ、などと考えたこともあった

しかし、結城さんのアプローチこそ対象の中に入るやり方ではないのかと思い当たったのだ

これからの歩みにとって示唆に富む出遭いとなった

発見はいつも偶然が齎してくれる








2022年3月12日土曜日

ハイデッガーの形而上学(31)































17.気分の暫定的な特徴付け:ダーザインの基本的な在り方としての気分、ダーザインに生きる糧と可能性を与えるものとしての気分.ダーザインとしてのダーザインを把握するものとしての気分の呼び覚まし



我々が共にいる人間が悲しみに打ちひしがれている

これは、この人が我々は共有していない生きた経験の状態にあるが、他のすべては以前のままということだろうか

そうでなければ、ここで何が起こっているのか

悲しみに打ちひしがれている人は自らを閉じ、我々に敵意を示しているわけではないが、近づき難くなる

しかし我々は、以前と同じように彼とともに在り、ひょっとすると彼を以前より受け入れるようになっているかもしれない

彼の方も態度を変えない

すべては以前のままであると同時に、すべてが違っている

我々が共にいるあり方が違うのである


このような気分においてこの人間が近づき難くなるということは何を意味しているのか

我々が彼といるあり方が変わったのである

お互いにいる我々の存在(我々のダーザインがそこに在ること)が違い、その気分が変化したのである

この状況を詳しく見れば、気分は内(他者の魂の中)に在るものでも我々の魂の中でどこかに共にあるものでも全くないことが見えてくる

そうではなく、気分がすべてに押し付けてくるのである

一体気分はどこに、どのようにあるのだろうか

気分とは魂の中に表れる何かではなく、我々がお互いにそこに在るあり方なのである


ここで、他の可能性について考えてみよう

上機嫌の人間は生き生きとして雰囲気をもたらす

細菌がヒトの間を行ったり来たりするように、感情の経験を他の人に伝えているのだろうか

確かに、気分には伝染性がある

また、別の人間はすべてを憂鬱にし、全てに水を差す

これは何を語っているのか

気分は副作用などではなく、我々がお互いに存在するあり方を予め決めている何かである

気分はそれぞれの場合にすでにそこに在るかのようなものである

そう見えるのではなく、そうなのである

この事実に直面すると、感情や経験や意識の心理学を無視しなければならない

それは、ここで起こっていることを「見て、言う」という問題なのである

気分は存在――ダーザイン(そこに在るもの)――の基本的なあり方なのである

ダーザインのそこに在るあり方であり、それは離れて在ることである

気分は単なる形ではなく、あり方なのである


つまり、気分は特定の存在ではないという第一のネガティブな考えに対するポジティブな表現を我々は持っている

それは、気分はダーザインとしてダーザインが在る基本的なあり方ということである

それから、気分は不安定で儚い単なる主観的な何かではないという第二のネガティブな考えについても対抗する考えがある

気分はダーザインのまさに基盤において生きる糧と可能性を与えるということである









2022年3月11日金曜日

ハイデッガーの形而上学(30)















c)人間存在がそこに在ることとないことに基づく気分がそこに在ることとないこと(つづき)

この問いを追求する前に、我々の講義の務めについて何が言われてきたのかを振り返っておこう

我々が哲学する際の基本となる気分を呼び覚ますという仕事に向き合っている

気分とは、普遍的に有効な方法で直ちに確認できない何かである

気分は確認できないだけではなく、それができたとしても確認すべきではないのである

なぜなら、全ての確認は意識の状態に持って行くことを意味しているからである

気分に関しては、意識させる全ては破壊、変更を意味する一方、気分を呼び覚ます際には我々は気分があるがままにさせることに関心を持つ

呼び覚ますとは気分がそうあるように任せることである

ある意味で、気分はそこに在ってないのである

それはすでに言ったように、石がそこに在るのとないという差ではない

それは完全に逆のことである

それに対して、離れて在るということはそこに在るということの反対ではない

寧ろ、離れて在るすべては、Daseinに関係してそこに在ることが前提になっている

我々は離れて在ることができるために、そこにいなければ(da-sein)ならない

つまり、離れて在ること、あるいは「そこにいていない」ことは奇妙なことで、気分はまだ曖昧なやり方で存在の奇妙な在り方と関係している


気分がそこに在ると言うことは基本的に誤解を招くということについては触れた

なぜなら、その場合、気分を存在する性質のような何かとして捉えているからである

この概念に対して、心理とか伝統的なものの見方で見られるものとしての普通の意見を持ち出した

気分とは、思考とか意志の横に在る感情とするものである

この分類は人間を理性的な存在として見る考え方に基づいて行われている

我々は、まず気分は存在ではないこと、単純に魂の中に表れる何かではないこと

第二に、気分とは最も不安定で儚いものではないこと

我々のネガティブな主張と対比して、ポジティブであるものを示すことが問題になる

我々は気分とその本質を少しだけ我々に近づけなければならないのである





2022年3月10日木曜日

ハイデッガーの形而上学(29)
























c)人間存在がそこに在ることとないことに基づく気分がそこに在ることとないこと



これは意識と無意識とは何の関係もない

逆に、そこにないことは優れて意識的であり得る

離れて在るという潜在性は人間一般の在り方に属するものである

我々は人間存在をそこに在る(Da-sein)ものと名付けるが、その内容はこれから決定される

離れて在るということは、そこに在るDaseinの本質に関わるものである


気分は呼び覚まされるものである

しかし、それはそこに在ると同時にそこにないことを意味している

それが在る同時にないということは、人間存在の内奥の本質と関係している

気分は人間存在に属している

ただ、それは何かのもの(石など)が手元に在るのかないのかという事態とは全く異なっている

離れて在るということ自体、人間の存在である

それは存在しないことではなく、Da-seinがそこに在る1つの在り方である

石の場合にはそこに存在しないが、人間の場合、離れることができるためにはそこにいなければならない


気分(喜び、満足、至福、悲しみ、憂鬱、怒り)は心理的、霊的な何かであり、感情の状態である

それが我々の中にあることは確認できる

気分や感情は常に変化している

ただ、気分が人間存在に属しているとすれば、それは単なる感情の1つの状態ではない

従って、我々はこう問わなければならない
人間の本質に属するものとしての気分をいかにしてポジティブに捉えるのか

そして、我々が気分を呼び覚ましたいのであれば、どのように人間自身と関連付けるのか






2022年3月9日水曜日

ハイデッガーの形而上学(28)































b)気分がそこに在ることとないことは、意識と無意識を区別することによっては把握できない(つづき)


しかし、我々が気分を呼び覚ます時は常に、それはすでに在ったと同時になかったというところに導くという事実は残る

そこに在ることとないこととの差異は、意識と無意識の差異と同等ではないことは見てきた

そこからさらに、もし気分が人間に属するもので、人間が気分を持ち、意識と無意識によっては明確にできないとすれば、我々が人間を意識があり、理性を具えた動物であるとして物質から区別される何かとして捉える限り、この問題に近づくことはできないだろう

生きて理性を持った存在としての人間という概念からは、気分の本質を理解するところには全く辿り着けなかった

気分を呼び覚ますこと、この奇妙な仕事の口火を切る試みは、我々の人間の概念を完全に変容させることを要求することになるだろう


始めからこの問題を複雑にしないために、眠りとは何なのかという問題には入らない

なぜなら、方法論的に言えば、眠りと目覚めが意味するところを明確にした時にのみ、我々は呼び覚ますことの本質に関する情報を得ることができるからだ

眠りと目覚めのような現象を明確にすることは、一つの特別な問いとして外から提起できるものではないということだけ言っておきたい

むしろ、そのような明確化は、我々がそのように存在は構造的に決定されて寝たり起きたりできるのかという基本的な概念を持っているという前提の上でしか起こらない

石が寝ているとか起きているとは言わないが、植物はどうだろうか

植物が起きているのか寝ているのかに関して、我々は答えられない

動物が寝ることは知っている

しかし、その眠りは人間と同じかどうかは分からない

これは異なる存在(石、植物、動物、人間)の構造に関する問題と密に結び付いている


現代において眠りが多くの誤解を生んでいるの対して、古代の哲学者の中に眠りの根本的な特徴がもっと基本的、直接的に捉えられているを見る

目覚めと眠りに関する論文を書いたアリストテレスは、眠りを意識と無意識と結び付けていなかった

彼は、眠りを縛られた状態であると見ていた

それが他の存在には入り得ないという意味において、受容や本質も縛られている

このように眠りを特徴付けることは、形而上学的な意図では捉えられなかった広いパースペクティブを開くものである

基本的な形而上学的理由で、我々は眠りの問題に入ることを断念しなければならず、気分を呼び覚ますことの意味を他の経路で明らかにする試みをしなければならない











2022年3月8日火曜日

ハイデッガーの形而上学(27)































b)気分がそこに在ることとないことは、意識と無意識を区別することによっては把握できない


奇妙ではあるが、眠っているものは何でもそこにないと同時に在る

我々が気分を呼び覚ます時、それはすでにそこに在ることを意味している

同時に、それはある特定のやり方でそこにはないという事実を表している

気分はそこに在ると同時にない何かである

これは奇妙である

もし慣例に則って哲学することを継続したいと願うならば、我々は直ちにこう言うことができるだろう

そこに在ると同時にない何かは、内在的に矛盾する存在である

そこに在ること(Da-sein)とそこにないこと(Nicht-Da-sein)は、完全な矛盾である

しかし、矛盾するものはあり得ない

伝統的な形而上学の古い命題であるが、丸で四角があり得ないように、それはあり得ないのである

我々はこの由緒ある形而上学の原理を問題にしなければならないだけではなく、その基盤を粉砕しなければならない


結局のところ、我々が一般にものについて知っていることは、曖昧な「あれか、これか」に関して知っている

確かに、誰かはそこにいるかいないかである

しかし、ここで問題にしているのは、石の場合とかなり違うことである

人間としての経験から、何かが手元にあるがまだないこと、我々の意識に入り込んでいない過程があることを知っている

つまり、手元にあるが、意識にはないのである

「手元にあると同時に手元にない」という奇妙な状態は、無意識な何かを意識している可能性から生まれる

無意識という意味でそこにないことと意識している意味においてそこにあることとの違いは、眠っているものを呼び覚ますことに相当するように見える

しかし、眠りと無意識を単純に同一視できるだろうか

眠りは単なる意識の欠如ではない

実際には多くの場合、眠りでは夢のように非常に活発な意識が動いている

従って、意識と無意識の差異で目覚めていることと眠っていることの問題は解決できない


ある気分を呼び覚ますことは、単に以前は無意識だった気分を意識させることを意味しない

ある気分を呼び覚ますことは、目覚めるようにさせること、任せることである

気分を知識の対象にしたりすれば、気分は破壊されるか、弱まったり変質したりするのである







2022年3月7日月曜日

ハイデッガーの形而上学(26)



























第1部 我々が哲学する際の基本となる気分を呼び覚ますこと

第1章 基本となる気分を呼び覚ます務めと我々の同時代のダーザインにおいて隠された基本となる気分の指摘

16.基本となる気分を呼び覚ますことの意義について予備的理解に至る

a)呼び覚ますこと:手元にある何かを確かめることではなく、眠っているものを目覚めさせること


我々の基本的な務めは、我々が哲学する際の基本的な気分を呼び覚ますことにある

わたしは、任意に哲学するとか哲学そのものにおいてとは言わずに、意図的に「我々が」哲学する際と言ったが、一般的に哲学するということは存在しないからである

それは、我々が哲学することを支える一つの基本となる気分を呼び覚ますことであって、一般的な基本となる気分ではないのである

従って、その気分は一つではなく、我々に関係するのはどれであり、そのような気分はどこから来るのかという疑問に導く

ここで、どの基本となる気分を選び、どのような道を進むのかという問題に直面する


気分は我々が作り上げることができる何かであったり、我々のところにわざわざやってきたり、呼び出したりできる何かではないのか

もし知らない間に入り込むものであるとすれば、そのような気分を人工的に齎すことはできない

それはすでにそこになければならないのである

我々ができることはそれを確認することである

しかしどうやって哲学することの基本となる気分を確かめるのか

それは普遍的に認められた事実として証明できるのか


基本となる気分を所謂客観的に確認することは疑わしく、不可能な企てである

従って、一般的に気分の普遍性を問い、このように確認されたものの普遍的な有効性について熟考することは無意味である

どれだけ注意深くしていても、観察によって見出されるものは何もない


従って、我々が哲学する際の基本となる気分を「確認する」ことに関しては語らず、それを呼び覚ますことについて語ることにしたい

呼び覚ますとは、何かを目覚めさせるということで、眠っているものを目覚めさせることである







2022年3月6日日曜日

ハイデッガーの形而上学(25)
























形而上学そのものの基本的な問題のための名前としての形而上学

予備的評価の結果と形而上学的問い掛けによって心を掴まれた存在に基づいて形而上学の中で行動を起こすことの要請



形而上学という概念の議論全体を検討する時はいつも、この名前が「全体としての存在」に向かう知を表していることが分かる

同時に、「全体としての」という表現が「真の問題」を含んでいる用語であることも分かる

それは「一般的に最初に提起されなければならない」問題であり、伝統からのいろいろな意見を引き継ぐことによって存在しないようにはさせられない問題である

従って、「形而上学」という名前を単に伝統的な意味に取ることができないことは明らかである

我々は、「形而上学」という表現を一つの問題の名前として、さらに望ましいのは「形而上学自体の根本的な問題」――それは形而上学自体が何であるのかという問いの中にあるのだが――の名前として引き継いでいる

「形而上学とは何なのか、哲学するとは何なのか」という問いは、哲学と分かち難くそこにあり、哲学の変わらぬ友なのである

哲学が適切に行われれば行われるほど、この問いは益々鋭く提起されることになる

哲学そのものが何であるのかという問いは、哲学に後から付け加えられたものとしてあるのではなく、哲学そのものに内在している

それに対して、数学、物理学、文献学とは何なのかという問いは基本的に提起されないか、これらの科学によっては解決されないのである


もし、予備的評価から我々が求めるものを考える時、同時に形而上学という概念とそれに対する我々の立場の議論を検討しているとすれば、これらすべての議論は形而上学とは何かについて何も明確にしなかったと言わなければならない

「形而上学」という言葉についての議論において、我々が「哲学する」とは何を言うのかという問いで終わるのである

その意味で、我々の予備的評価は完全にネガティブである

ただ我々は、哲学を特徴付ける一般的なやり方を放棄し、哲学が我々を求めるという意味で、究極のものであり、それ自身で立つ何かとして哲学を問うことを決めた

我々は形而上学や哲学を科学として解釈したり、芸術や宗教と比較したりするのではなく、形而上学や哲学がそれ自身で立つ何か、それ自身が決めた条件で理解されなければならない何かであるという事実を考慮に入れたのである

従って、ここで求められるのは哲学を前にして逃げるのではなく、哲学自体について問うことであった

あるいは、我々は哲学を前に逃げたのだろうか

我々は哲学自体を直に扱ったが、まさにそれ故、哲学の前で逃げたことを認めなければならない

これは目立たない曖昧な形で起こっただけであった

確かに我々は、科学、芸術、宗教というような他のことは語らず哲学について語ったが、それは「哲学の中から出たところから」直に具体的にではなく、「哲学について」語ったのであった

「哲学の中から出たところから」語るのは、我々が前もって「形而上学的問い掛け」の中に入る時だけである

しかし、これは起こらなかった

我々は単に包括的な問い掛け「について」語っただけであった

包括的問い掛けとは、いずれの問いの中でも全体としての存在を含み、問い掛ける人自身も問われることになるものである

どれだけ「それについて」我々が関わろうとも、そのような問い掛けに心が掴まれていなければすべては誤解のままである

我々は哲学に「ついて」語ったが、「そこから出たところから」は語らなかった

確かに、哲学を扱ったが、哲学自体の中で行動は起こさなかった

しかし決定的なことは、「形而上学自体の中で行動を起こすこと」から我々が現れることである

これは、我々が実際に適切に問いを出さなければならないということを意味している


すでに我々は、提起する問題を示した

世界とは、有限性とは、個性化とは何か

ただ、これらの問いは偶然に出されたものであった

もし、これらの問いを形而上学的であると認めたいのであれば、かなり空疎で一般的であり、あまりに漠然としているので我々を無関心の状態に置き、根源的に我々を動かすことがないのである

このようにことを進めるとすれば、我々が放棄したいと思った元のレベルに戻ることになる

理論的議論(科学)をやり、その結果世界観について成果を生み出すだろう

しかしそのことにより、哲学することの浅薄さが回復されるのである

これらの問いを理論的なものとして発展させ、調和を「・・・に加えて」あるいは「・・・の横に」もたらすことではない

そうではなく、我々はまずこれらの問いをその必然性の中に、「根源的な調和の中から出て」立ち上がらせ、それを自立と明瞭さの中に保持しようとしなければならないのである

これがこの講義の最も重要な基本的務めであり、実際に生きた哲学をすることの始まりなのである



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これでイントロが終わったことになる

読み始める前よりは、ハイデッガーの考える形而上学の姿がよりよく見えるようになってきた

そこにほとんど違和感を覚えない

ただ、形而上学を知るためには、形而上学的問いの中にいなければならないというところ

プラトンが言う、何か知るためにはそのことについて少しは知っていなければならないということを思い出す

これからどのように展開するのだろうか

もう少し追ってみたい









2022年3月5日土曜日

ハイデッガーの形而上学(24)































フランシスコ・スアレスにおける形而上学の概念と近代形而上学の基本的特徴(つづき)


誤解を避け、今後の議論に備えるために、近代形而上学の基本的な性格について簡単に触れておきたい

古代、中世について行ったように、近代哲学を性格付けしようとする時、形而上学の概念が固定されてはいるが何か新しいことが起こっているという事実に直面する

近代形而上学の基本的な特徴は何なのか

伝統的な問題の全体が、「形而上学的自然科学」によって代表される新しい科学の下に来るという事実によって近代形而上学は決定される

もし形而上学が第一原因について、最も一般的で最も重要性の高い存在の意味について、つまり最も重要性が高く究極で至高のものについて問うことだとすれば、このような知は問われたものに相応しいものでなければならない

それは、その知が絶対的に確かでなければならないことを意味している

知を数学的に考えることを導きの糸として、伝統的形而上学の全問題は厳密に数学的に行うことが前提となる

形而上学を絶対的な科学のレベルに格上げすることになる

絶対的な確かさの問題は、近代哲学の基本的な問題である

これは近代哲学がデカルト、さらにフィヒテにおいて始まったところに明確に見ることができる

究極の確かさ、絶対的な確かさは、形而上学の中でどのような位置を占めるのか

デカルト以来の近代は、神の存在あるいは神の証明からではなく、意識やわたしから始める

わたしや意識は、形而上学の最も安全で不問に付される基盤に置かれる







2022年3月4日金曜日

ハイデッガーの形而上学(23)































フランシスコ・スアレスにおける形而上学の概念と近代形而上学の基本的特徴(つづき)


Disputationes Metaphysicae の序文においてスアレスはこう書いている
形而上学的真理は神学的知そのものにとってなくてはならないものなので、もしそれが軽視されることになれば、啓示の神学という意味において、神学そのものが危ういものになる危険性がある
彼は、ここでは論理的な問題に過ぎない全ての問いを除外していると明確に強調している

第一の議論(Disputatio)は第一哲学あるいは形而上学の本質を扱っている

彼は形而上学がいろいろな言葉で表現されてきたことを議論している

sapientiaprudentiaprima philosophianaturalis theologia、そして metaphsyica

自然神学や第一哲学が形而上学と呼ばれたのは、それが神を扱っていたからであると彼は言っている

アクィナスは一般的な存在を扱う時に「メタフィジカ」を表現した

しかし、スアレスはそれが神学である時に形而上学と呼んだのである

形而上学は自然のものに続くものを扱う

それは本の位置ではなく、内容に関するもので、感覚的なものより超感覚的な知が後に来るという意味であった

「メタ」は「後ろ」(post)の意味ではあるが、感覚的なものから超感覚的なものに進む知識の段階を意味していた


形而上学という学問が本質的な発展を遂げたのは、スアレスの影響によるところが大きいことは強調しておかなければならない

言葉の歴史から言えることは、スアレスの影響を受けた中世哲学が近代哲学の発展に決定的な影響を及ぼしたことである
















2022年3月3日木曜日

ハイデッガーの形而上学(22)































フランシスコ・スアレスにおける形而上学の概念と近代形而上学の基本的特徴


中世の形而上学の概念と古代とのつながりと真の問題を完全に覆っていることは、近代の形而上学、その発展、カントの位置、ドイツ観念論の発展について知ろうとする時には心に留めなければならない

アクィナスと中世哲学は、近代形而上学の発展にとって少しではあるが重要であることにも注目しなければならない

近代形而上学の発展に直接の影響を与えたのは、16世紀に生きた一人の神学者にして哲学者フランシスコ・スアレス(1548-1617)である

彼はアリストテレス形而上学を新しく解釈し直そうとしていた

スアレスの哲学者、神学者としての重要性はもっと認知されるべきで、彼の明察力や問いの独立性などに関してはアクィナスの上に置かれるべき思想家である

彼の重要性は、彼の影響の下で形而上学の分野が特定の形を採ったというような儀礼的なものだけではない

同様に重要なことは内容に関する問題を象ったことで、それは近代形而上学で再度呼び覚まされることになった

サラマンカにあったイエズス会が彼の活動に重要な役割を果たした


1597年、主著の Disputationes metaphysicae(全2巻)を刊行

サブタイトルにはその目的2つが示されている

1つは、自然神学(啓示に先立つもの)の内的構造全体を扱うことで、もう1つはアリストテレスの形而上学に属するすべての問題を適切に論じることであった

彼はアリストテレスの『形而上学』が秩序立っていないことを見ていた

この混乱を解消するために、主要な問題を体系的に並べようとしたのである

自然神学に関する全分野の議論はスアレスに行きつき、アクィナスにおいては形而上学的思考の応用とアリストテレス形而上学に対する注釈があるだけであった

デカルトは、ラ・フレーシュのイエズス会で形而上学、論理学、倫理学の講義を聴いていたので、スアレスについては熟知しており、後年に至っても折に触れてその書に当たっていた








2022年3月1日火曜日

ハイデッガーの形而上学(21)
































トマス・アクィナスにおける形而上学の概念:伝統的な形而上学の概念の3つの特徴に関する歴史的証拠(つづき)


アクィナスは形而上学の伝統的概念にある3つの意味を纏め、統一された科学(scientia regulatrix)とした

その結果、第一哲学は第一原因、存在一般についての形而上学、神とともにある神学の3つを扱うことができるようになった

そこに内在する問題についてはもう触れないが、それがここでは問われることなく体系化され、一つは信仰によって決められるものである

つまり、このような曖昧さの中にある形而上学という概念は、それ自体の問題に向かうのではなく、「超える」ことに関する別々の決定が一つに纏められたのである


さらに進む前に、もう一度お浚いをしておきたい

形而上学の曖昧さはプラトンやアリストテレスにおいて生まれた第一哲学という概念の中にすでに見られる

アリストテレスは、哲学すること自体を二つの方向に導いた

1つは存在そのものについての問いで、もう1つはそれぞれの存在に関する統一、多数性、対立などについての問いである

アリストテレスはこの問題に気付いていなかった


問題は中世の神学に顕著に見ることができる

正式の範疇に関する問いは、神の問題以外の何かである

そこで矛盾が生じないのは、問いが物質的なものではなく非感覚的であるものについての知である場合だけに限られる

平等の正式な概念は抽象的であり、そこでは感覚的なものは無視される

神は抽象的ではないどころか最も具体的なものであるが、物質ではなく純粋の精神である

哲学すること自体に2つの方向性があるという不調和は、中世に激しくなる

それは、アリストテレスの神学がキリスト教の天啓に方向付けられた絶対的人物としての神の意味で理解されたからである

こうして形而上学の中身がキリスト教における神学に方向付けされたのである

つまり、アリストテレスにおける神学は存在一般に関する問いと並んで分類されていたが、そうではなくなったのである

それはカントにおける形而上学が神学として捉えられるところに繋がった


アクィナスの解釈の中では、因果関係における究極なもの、抽象の意味における最も一般的なもの、特定の存在様式の意味における至高の存在に関する知が、普遍という曖昧な概念の中に融合されている

形而上学はすべての存在に共通すること、そして神に関することを扱うことができるとアクィナスは考えた

しかし、両者はいずれも最高のもの、究極のものではあるが、その内的構造は全く異なっていたのである








2022年2月28日月曜日

2月を振り返って
























寒かった2月も終わりを迎え、春の気配を感じる季節になってきた

さて、今月は何をやっていたのだろうか


1つは、「医学のあゆみ」のエッセイシリーズの纏めを終え、原稿を出版社に送ったこと

予定では6月刊行とのことだった

これまでの経験から言えることは、自分の書いたものがどのようなものなのかをすぐには判断できないということである

ただ、この纏めは10年前から書いたものを再び取り上げているので、書いた直後とは異なり、少しだけ客観的に見ることができるようだ

その印象を一言でいえば、「一学徒の発見に満ちた知的遍歴」とでも総括できそうな内容になっている

刊行の暁には手に取っていただければ幸いである


2つは、寝かせておいた免疫に関するエッセイの見直しを始めたこと

こちらは書き終えてまだ時間が経っていないので、客観的な印象を表現することができない

主観的には、新しい視点を盛り込み、これまでにない読み物になっているのではないかと想像している

同じように考え、あるいはこの中に新たな特徴を見るお産婆さんがいることを願うばかりである


3つは、ハイデッガーの形而上学を読み始めたこと

最近の日常は発見に満ちているが、この方の分析にも目を開かされることが少なくない

これからも読み続けることになりそうである

フランスに渡る前、フランスの哲学教師からハイデッガーの思考と共通するところがあるとの指摘を受けたことがある

それを裏付けるように、わたしが発しているのではないかと思われる言葉によく出会う

ピエール・アドーさんが言うように、立ち止まって反芻・瞑想しながらの読書になっている

そうしなければ内容を掴むことはできないし、それでも読み切っているのかどうか分からない

いずれにせよ、興味深い経験となっている



今月はこれまで主要なプロジェとしてやってきた2つが収斂するように纏まりを見せてくれた

偶然の成せる業だろうが、驚きである

この2つは相互に深く絡み合っている

両方を併せて読むと、より立体的にこれまでの歩みが見えてくるようである


今月もよく摘み取ったのではないだろうか

来月もそうありたい







2022年2月27日日曜日

ハイデッガーの形而上学(20)
























トマス・アクィナスにおける形而上学の概念:伝統的な形而上学の概念の3つの特徴に関する歴史的証拠


私がこれまでに提示した伝統的な形而上学の概念の3つの特徴、すなわち、その矮小化、混乱、問題とならない性質についていくつかの証拠を提供したい

そうすることにより、これがある特定の立場からの見方ではないことが分かるからである

その証拠はトマス・アクィナスの形而上学の概念を通して提供できるかもしれない

アクィナスは折に触れて、体系的にではないが、アリストテレス形而上学についての注の中で形而上学の概念を語っている

アクィナスは「第一哲学」、「形而上学」、「神学」(神の科学=scientia divina=神的なるものの知)を同一のものとしている

scientia divina は天啓から生まれる知、人間の信仰に関係した知を意味する scientia sacra(聖の科学)とは別のものである

上の3つを同列に並べることはどれだけ驚くべきことなのだろうか

アリストテレスは形而上学という言葉は知らなかったが、アクィナスの見方はアリストテレスのものでもあったのである


アクィナスは最も高度な知(彼は常に形而上学的知と呼ぶ)は、全ての知を支配するscientia regulatrix であるという前提から進める

最も知り得るものを3つに分ける

1.何かが最も高度な意味において知り得る

中世においては、知るということは「もの・こと」をその原因で把握することである

究極の原因、第一原因に戻る時、何かは最も高度な意味において知られる

この考えによれば、第一原因は世界の創造者である神になる

この原因が知ること、すなわち第一哲学の対象になる

これはアリストテレスの思考とは相容れない思考の流れになる


 2.何かを感覚的な知との比較で理解する

他方、知性とは個別、特定のものではなく、すべてに共通するものに関するものである

これはアリストテレスが「オン」についての知で光を当てたかったことである

アクィナスはこれを transphysica、すなわち物理的なものや感覚的なものを超えたものについての決定であるとした

つまり、この知を形而上学と定義したのである

第一哲学と神学と同列に置いた形而上学を特別にこのように定義したということは、存在論(ontology、後に metaphysica generalis と呼ばれることになる)と同義に理解していたことになる


3.何かが知性そのものの知に関して最も知り得る

アクィナスは最も知り得るものは物質がないものとした

それは霊的なもの、超えたものの知で、神に関する知 scientia divina、神学になる








2022年2月26日土曜日

ハイデッガーの形而上学(19)

























b)形而上学の伝統的な概念の混乱した状態:超感覚の存在に関係する超えて在る「メタ」と存在の本質に特徴的な非感覚の「メタ」が結び付いている


形而上学の伝統的概念は内在的に混乱している

アリストテレスにおいては、超感覚の知である神学の横にもう一つの問いの方向性があった

それは元々、存在そのもの「オン」の知に関する問いに属していた

トマス・アクィナスはアリストテレスの2番目の方向性を引き継いだ

存在一般が「第一哲学」の対象になったのである

したがって、存在そのものに関してわたしが問う時、必然的に個別の存在を通り越していくことが明らかである

単一性、他と異なっていること、差異、対立などに向かう

ただ、個別のものを超えて存在していることは、特定の存在を超えて在る神とは全く異なっている

このように根本的に異なる種類の超えて在るものが一つの概念に結び付けられている

問題はそのことについて問われないことである

より一般的に言うと、

第1の神学の知の場合、存在そのものとして感覚を超えて在るという意味における非感覚的なるものの知である

第2の場合、単一性、他と異なっていること、差異、わたしが味わうことも重さを測ることもできないものをわたしが強調する時はいつも、超感覚ではなく非感覚な何か、感覚からは近づけない非感覚な何かのことである

このように見ると、アリストテレス哲学の中にあった問題が引き継がれた限りにおいて、形而上学の概念そのものは混乱しているのである



c)形而上学の伝統的概念の問題とはならない性質


形而上学の伝統的概念はこのように矮小化され混乱しているので、形而上学そのもの、あるいは適切な意味における「メタ」は問題にされない

逆に言えば、人間が完全に自由な問い掛けをすることとしての哲学は中世では不可能であったので、アリストテレス形而上学を2つの方向性に則り引き継いだことは、最初から信仰の教義だけではなく第一哲学そのものの教義が生まれるように体系化されたのである

古代哲学がキリスト教の信仰へ、そしてデカルトで見たように近代哲学に引き継がれるという奇妙な過程は、適切な問い掛けを確立したカントによって初めて断ち切られたのである

カントは初めて形而上学自体を問題にすることを試みた

ここでそのことを詳細に論じることはできないが、詳しく知りたい人はわたしの『カントと形而上学の問題』を読んでいただきたい

そのすべてを理解するためには、19世紀のドイツ観念論などを通して生まれ、標準になっているカントの解釈から完全に自由にならなければならない












2022年2月25日金曜日

ハイデッガーの形而上学(18)


























a)形而上学の伝統的概念の矮小化:より高いものであるが手元にある存在としての形而上学的なもの(神、不滅の魂)


形而上学の伝統的な概念は矮小化されている

今日、「形而上学」とか「形而上学的」という言葉が使われる時はいつも、何か深く、神秘的で、直接は近づけない、日常的なものの背後にあり、究極の領域にあるものという印象を伝えるためである

普通の経験を超えたものという時は、超感覚的なものを指している

神智学やオカルトなどはそれと関係している

形而上学の復活などと言われるのはこのようなもので、キリスト教のドグマと関連している

それは古代哲学に由来し、順序の問題ではなく、内容の解釈に関連する形而上学である

キリスト教が関心を持つこの世界を超えるものは、神と不死である

それが形而上学そのものになるのである

近代哲学の始めから、デカルトが『省察』の中で言ったように、神の存在と魂の永遠の証拠を見つけることが第一哲学の目的だったのである

アリストテレスにおいては、第一哲学を存在そのものに関する問いと存在の本質に関する問いの2つに分けた

それは全体としての存在に関する問いであり、究極、最高のものに関する問いに戻っていった

アリストテレスはこれを「テオス」に関する「ロゴス」=神学(テオロギー)とした

このテオスは創造主や人格を持つものではなく、神的なものである

このように、アリストテレスにおいては形而上学と神学は結び付いていた

日常的な意味における形而上学的なもの、超感覚的なものは神学的知とされるものになったのである

それは信仰の神学ではなく、理性の神学であった

形而上学が科学などの他の存在に関する知と同じレベルに入ってきた

「メタ」は特別な思考の方向性を指すものではなく、単に他のものの後、上にあることを意味するようになった

形而上学が独自に立つという基本的な方向性が消え、日常的な知の中に矮小化されることになった

one of them になったのである

しかし、これは「メタ」の完全な誤解である

形而上学的なものをある存在として理解する時、形而上学という概念の矮小化と浅薄さに出会うことになる









2022年2月24日木曜日

ハイデッガーの形而上学(17)















形而上学の伝統的な概念に内在する不一致


形而上学をスコラ学の教科として排除したことを考えれば、何の正当性をもって「形而上学」という名前を保持しているのか、それは同時にそこにどのような意味を与えているのかという問題に我々は関わり合っている

この言葉の歴史を通してその答えを探した

その歴史は何を我々に語ったのか

それは2つあった

最初の技術的な意味とその後の内容に関する意味である

最初の意味はさて置き、我々が哲学とは形而上学的問い掛けであるという時の2番目の意味で形而上学を考える

超感覚の知識に関する内容として形而上学は捉えられた

形而上学を単に「第一哲学」(πρώτη φιλοσοφία)のタイトルとしてではなく、哲学そのものを表す言葉として理解している

ここで問題になるのは、「第一哲学」の真の理解から形而上学が解釈されたのか、形而上学(メタ)の内容から生まれた解釈に基づいて「第一哲学」が構想されたのかである

実際には後者で、形而上学は超感覚に関する知識とする第2の意味において捉えられた

これは我々の仮定とは異なっているかもしれない

我々が求めたのは、「第一哲学」の元々の理解から生まれた意味を手に入れてから名前を与えることである

つまり、内容から考えられた形而上学との関係で「第一哲学」を解釈するのではなく、アリストテレスの「第一哲学」で問題にされたことを解釈することにより、「形而上学」という表現を正当化することである

このような問いを出すということは、超感覚の知識としての形而上学は「第一哲学」の元々の理解から生まれたものではないという考えがベースにあることを意味している

そのための2つの根拠を示さなければならない

1つは、「第一哲学」の元々の理解がどのようにアリストテレスの中で得られるのか

2つは、形而上学の伝統的な概念がこの点で欠けていることである


最初の点を示すためには、我々自身が哲学それ自体のより根源的な問題点を展開していることが必要である

その後に初めて、「第一哲学」の、すなわち古代哲学の隠され、未だ発掘されていない基盤を照らし出す松明を持ち、そこで基本的に何が起こっているのかを決めることができるかもしれない

ここで、形而上学という伝統的な概念に内在する不一致について指摘しておきたい

形而上学の伝統的概念について、3つのことを主張する

1)形而上学は矮小化されている

2)形而上学は内在的に混乱している

3)形而上学は明示されるべきことの現実的な問題には関わらない


▣ これら3つの点については次回以降に論じる





2022年2月23日水曜日

ハイデッガーの形而上学(16)

























b)内容に関する「メタ」の意味:「を超えて」(trans
超感覚の科学.スコラ学としての形而上学


このように、長い間『タ・メタ・タ・ピュシカ』は技術的なタイトルであった

それが、いつ、誰によって、どのように行われたのかは分からないが、ラテン語の「メタフィジカ」という一つの言葉に圧縮されることになった

すでに見たように、ギリシア語の「メタ」には「後ろ」という意味があるが、「何かから離れて別のものに向かう」という意味もある

「メタフィジカ」という言葉になることによって、「メタ」は意味を変えた

自然学の後に来るという意味ではなく、「ピュシカ」から離れ、別のもの――存在一般、あるいは適切に存在するもの――に向かうものは何でも扱う学となったのである

1つの領域としての自然から哲学そのものが離れたことは、個別の存在を超えて他の存在に向かうことである


形而上学は感覚を超えた知識、超感覚の科学と知識となった

ギリシア語の「メタ」はラテン語では後ろを意味する post だが、trans (超えて)という第2の意味もあることからも理解できるだろう

技術的な意味から内容に関する意味に変わったのである

これをスコラ哲学に分類したことが、哲学そのものを形而上学とするという解釈の原因になった

このような変化は決してどうでもいいことでも害がなかったとも言えないことに十分な注意が払われていない

西洋における哲学そのものの運命がこのことにより決定されたのである

哲学そのものが前もって第2の意味におけるメタフィジックスとされることは、特定の方向性や特定のアプローチに強制される

そこから同様の言葉の使われ方が生まれた

例えば、「メタ論理」、ユークリッド幾何学を超えた「メタ幾何学」、哲学体系に基づく政治を実践する「メタ政治家」、アスピリンの効果を超える「メタ・アスピリン」などという話まで出ている・・・・・<現代では、「メタ」と名乗る企業まで現れている>

技術的意味から内容による意味への変化、そしてそれがどのようにして他のスコラ学と同列に分類されたのかを記憶しておくことは重要である

それについて多くのことを言うことができるが、形而上学の生きた問題からそれを理解するのでなければ不毛である








2022年2月22日火曜日

ハイデッガーの形而上学(15)































メタフィジックスにある「メタ」の技術的な意味から、中身に関して考えられている意味への切り替え

a)後(post)という「メタ」の技術的な意味 


紀元前300年から紀元前1世紀という古代哲学の凋落の世紀の間、アリストテレスの著作は殆ど忘れ去られていた

まず彼自身、殆ど出版していなかった

残されたものは、原稿、講義の草稿、講義の筆記録などであった

これらの材料をどうするのか、アリストテレス哲学を学校でも使えるようにしたいと考える人たちがいた

そこで彼らが直面したのは、アリストテレスが書き残した全体を搔き集めて整理することであった

そこでごく自然だったのは、当時あった3つの見方、すなわち論理学、自然学、倫理学に則って分類することであった

しかし、彼の著作の中にはこれらに当て嵌まらない存在一般、存在が在るところのものに関する「哲学することそのこと」が含まれていた

整理する人はこれらをどこに入れるのか分からなからず戸惑いが生まれたが、それを除くことは最も避けたいことであった

そこで生まれる問題は、学校は3つの学科をどうするのかを決める立場にないので、どうするのかということであった

この状況について明確にしなければならないことがある

それは、哲学において本質的なことは、収めることができないということである

学校の哲学は、哲学することに直面して困惑したのである


この困惑から抜け出す方法が唯一つ残されている

「哲学することそのこと」が学校では当たり前になっていることと関連がないのかどうかを検討することである

そうすると、両者は確かに関連している

アリストテレスが「第一哲学」で扱った問題と学校の哲学が「自然学」の中で論じたことの間に関連性がある

勿論「第一哲学」での議論は、より広くより根源的ではあるのだが、、

従って、「第一哲学」を物理学の中に分類することはできないが、唯一可能なのは自然学と「並行して」、「背後に」、「後に」置くことである

「背後に」、「後に」のギリシア語が「メタ」で、哲学することそのことが自然学の後ろに置かれて「メタ・タ・ピュシカ」となり、そのタイトルが『タ・メタ・タ・ピュシカ』となったのである

ここで重要なことは、この名称はその内容や問題点によるものではないということである

我々がメタフィジックス(形而上学)と呼ぶものは困惑のタイトルであり、何をしてよいのか困ったところから生まれた純粋に技術的な表現だったのである







2022年2月21日月曜日

ハイデッガーの形而上学(14)














今朝はなぜか早く目が覚めた

テレビを付けてみると、ロワール川の古城の映像が流れているではないか

以前に観たような気もしたが、わたしが住んでいたトゥール周辺の景色を空から眺めることにした

丁度、ダ・ヴィンチ終焉の地アンボワーズが始まったところだった

それから、ブロアシュノンソーヴィランドリーアンジェソミュールナントのブルターニュ大公城など

いずれも訪れた時の記憶が蘇ってきた

これを懐かしさと言うのだろうか

その時の経験は確かに記憶に蓄えられている

勿論、そこに身を置いた時の気持ちとは異なるのではあるが、


続いて、ドイツのフォーレ4重奏団の演奏が始まった

如何にもドイツ人という話し振りと言ってよいのだろうか

落ち着きと冷静さと明晰さがあり、ヨーロッパの一つの極を見る思いであった

それは演奏にも表れているように感じた

満ちた朝の時間となった


さて、今日もハイデッガーの声に耳を傾けることにした


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論理学、自然学、倫理学のスコラ的学科の形成と哲学するそのことの衰退


アリストテレスが哲学そのものに関して成し遂げたことは、それぞれの講義や論文集の中で我々に伝えられてきた

その中に、我々は哲学することについての新しいアプローチや試みを発見する

しかし、プラトンの対話篇にプラトン哲学のシステムがないように、後に考え出されたようなアリストテレスのシステムもない


アリストテレスは紀元前322-321に亡くなった

古代哲学はアリストテレスで頂点に達し、それ以降は下り坂を辿った

プラトンやアリストテレスについては、学派の形成が避けられなくなった

そこで何が起こったかというと、生き生きとした問い掛けがなくなったのである

それまで哲学的に把握されたことが、すでに明らかにされていること、有益な何か、応用可能な何か、誰でも学ぶことができるものとして扱われるようになってからは尚更である

元々のプラトン、アリストテレスの哲学に属していた全てが根こそぎにされ、最早根差した何かとしては理解されなくなる

全ての哲学が辿る運命ではあるが、それが学校の哲学になるのである

問題となるのは、最早その核心においても活力においても理解されることのない豊かな材料を整理する時の視点である


このスコラ的な整理をする際の視点は、すでに明らかになった主題の結果である

一方で、哲学がピュシスと関連することで、それは人間によって作られたものとは区別した

そこからピュシスの対立概念を得る

1つは、人間の行動や活動に関わる全てで、狭い意味のピュシス(自然)とは異なっている

これはギリシア語では「エトス」で、エシックス(倫理学)の語源にもなっている

ピュシスとエトスが哲学で扱われる時には、ロゴスの中で明確に話され議論される

「もの・こと」について語る「ロゴス」は、まず教えることに関係するすべてに入り込む


古代の哲学することがスコラ的な学科になると、自分自身の問題から生き生きと哲学することではなく、科学のような知識の習得になる

それはアリストテレスが言うエピステメ、すなわち一つの科学になるのである

このようにスコラ的に構成された哲学は、論理学、自然学(physics)、倫理学という三つの学科を生み出すことになった

この傾向は、実はプラトンがアカデメイアを作った時から始まっていた

哲学がこのように分離されるのはアリストテレスのリュケイオンにも引き継がれ、さらにストア派へと繋がった


我々は、この事実を単にメモするだけでは不十分である

決定的なことは、最初からこのスコラ的な構造が哲学の概念――学校で教え学ぶものとしての哲学――を形作っていることである

そのため、新しく現れた哲学的問題は必然的に、これらのどれかに割り当てられ、それぞれの方法論で扱われることになるのである