2022年3月13日日曜日
結城登美雄という民俗研究家
2022年3月12日土曜日
ハイデッガーの形而上学(31)
2022年3月11日金曜日
ハイデッガーの形而上学(30)
c)人間存在がそこに在ることとないことに基づく気分がそこに在ることとないこと(つづき)
この問いを追求する前に、我々の講義の務めについて何が言われてきたのかを振り返っておこう
我々が哲学する際の基本となる気分を呼び覚ますという仕事に向き合っている
気分とは、普遍的に有効な方法で直ちに確認できない何かである
気分は確認できないだけではなく、それができたとしても確認すべきではないのである
なぜなら、全ての確認は意識の状態に持って行くことを意味しているからである
気分に関しては、意識させる全ては破壊、変更を意味する一方、気分を呼び覚ます際には我々は気分があるがままにさせることに関心を持つ
呼び覚ますとは気分がそうあるように任せることである
ある意味で、気分はそこに在ってないのである
それはすでに言ったように、石がそこに在るのとないという差ではない
それは完全に逆のことである
それに対して、離れて在るということはそこに在るということの反対ではない
寧ろ、離れて在るすべては、Daseinに関係してそこに在ることが前提になっている
我々は離れて在ることができるために、そこにいなければ(da-sein)ならない
つまり、離れて在ること、あるいは「そこにいていない」ことは奇妙なことで、気分はまだ曖昧なやり方で存在の奇妙な在り方と関係している
気分がそこに在ると言うことは基本的に誤解を招くということについては触れた
なぜなら、その場合、気分を存在する性質のような何かとして捉えているからである
この概念に対して、心理とか伝統的なものの見方で見られるものとしての普通の意見を持ち出した
気分とは、思考とか意志の横に在る感情とするものである
この分類は人間を理性的な存在として見る考え方に基づいて行われている
我々は、まず気分は存在ではないこと、単純に魂の中に表れる何かではないこと
第二に、気分とは最も不安定で儚いものではないこと
我々のネガティブな主張と対比して、ポジティブであるものを示すことが問題になる
我々は気分とその本質を少しだけ我々に近づけなければならないのである
2022年3月10日木曜日
ハイデッガーの形而上学(29)
人間の本質に属するものとしての気分をいかにしてポジティブに捉えるのかそして、我々が気分を呼び覚ましたいのであれば、どのように人間自身と関連付けるのか
2022年3月9日水曜日
ハイデッガーの形而上学(28)
2022年3月8日火曜日
ハイデッガーの形而上学(27)
2022年3月7日月曜日
ハイデッガーの形而上学(26)
2022年3月6日日曜日
ハイデッガーの形而上学(25)
2022年3月5日土曜日
ハイデッガーの形而上学(24)
2022年3月4日金曜日
ハイデッガーの形而上学(23)
形而上学的真理は神学的知そのものにとってなくてはならないものなので、もしそれが軽視されることになれば、啓示の神学という意味において、神学そのものが危ういものになる危険性がある
2022年3月3日木曜日
ハイデッガーの形而上学(22)
2022年3月1日火曜日
ハイデッガーの形而上学(21)
2022年2月28日月曜日
2月を振り返って
2022年2月27日日曜日
ハイデッガーの形而上学(20)
2022年2月26日土曜日
ハイデッガーの形而上学(19)
2022年2月25日金曜日
ハイデッガーの形而上学(18)
2022年2月24日木曜日
ハイデッガーの形而上学(17)
形而上学の伝統的な概念に内在する不一致
形而上学をスコラ学の教科として排除したことを考えれば、何の正当性をもって「形而上学」という名前を保持しているのか、それは同時にそこにどのような意味を与えているのかという問題に我々は関わり合っている
この言葉の歴史を通してその答えを探した
その歴史は何を我々に語ったのか
それは2つあった
最初の技術的な意味とその後の内容に関する意味である
最初の意味はさて置き、我々が哲学とは形而上学的問い掛けであるという時の2番目の意味で形而上学を考える
超感覚の知識に関する内容として形而上学は捉えられた
形而上学を単に「第一哲学」(πρώτη φιλοσοφία)のタイトルとしてではなく、哲学そのものを表す言葉として理解している
ここで問題になるのは、「第一哲学」の真の理解から形而上学が解釈されたのか、形而上学(メタ)の内容から生まれた解釈に基づいて「第一哲学」が構想されたのかである
実際には後者で、形而上学は超感覚に関する知識とする第2の意味において捉えられた
これは我々の仮定とは異なっているかもしれない
我々が求めたのは、「第一哲学」の元々の理解から生まれた意味を手に入れてから名前を与えることである
つまり、内容から考えられた形而上学との関係で「第一哲学」を解釈するのではなく、アリストテレスの「第一哲学」で問題にされたことを解釈することにより、「形而上学」という表現を正当化することである
このような問いを出すということは、超感覚の知識としての形而上学は「第一哲学」の元々の理解から生まれたものではないという考えがベースにあることを意味している
そのための2つの根拠を示さなければならない
1つは、「第一哲学」の元々の理解がどのようにアリストテレスの中で得られるのか
2つは、形而上学の伝統的な概念がこの点で欠けていることである
最初の点を示すためには、我々自身が哲学それ自体のより根源的な問題点を展開していることが必要である
その後に初めて、「第一哲学」の、すなわち古代哲学の隠され、未だ発掘されていない基盤を照らし出す松明を持ち、そこで基本的に何が起こっているのかを決めることができるかもしれない
ここで、形而上学という伝統的な概念に内在する不一致について指摘しておきたい
形而上学の伝統的概念について、3つのことを主張する
1)形而上学は矮小化されている
2)形而上学は内在的に混乱している
3)形而上学は明示されるべきことの現実的な問題には関わらない
▣ これら3つの点については次回以降に論じる
2022年2月23日水曜日
ハイデッガーの形而上学(16)
2022年2月22日火曜日
ハイデッガーの形而上学(15)
2022年2月21日月曜日
ハイデッガーの形而上学(14)
今朝はなぜか早く目が覚めた
テレビを付けてみると、ロワール川の古城の映像が流れているではないか
以前に観たような気もしたが、わたしが住んでいたトゥール周辺の景色を空から眺めることにした
丁度、ダ・ヴィンチ終焉の地アンボワーズが始まったところだった
それから、ブロア、シュノンソー、ヴィランドリー、アンジェ、ソミュール、ナントのブルターニュ大公城など
いずれも訪れた時の記憶が蘇ってきた
これを懐かしさと言うのだろうか
その時の経験は確かに記憶に蓄えられている
勿論、そこに身を置いた時の気持ちとは異なるのではあるが、
続いて、ドイツのフォーレ4重奏団の演奏が始まった
如何にもドイツ人という話し振りと言ってよいのだろうか
落ち着きと冷静さと明晰さがあり、ヨーロッパの一つの極を見る思いであった
それは演奏にも表れているように感じた
満ちた朝の時間となった
さて、今日もハイデッガーの声に耳を傾けることにした
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論理学、自然学、倫理学のスコラ的学科の形成と哲学するそのことの衰退
アリストテレスが哲学そのものに関して成し遂げたことは、それぞれの講義や論文集の中で我々に伝えられてきた
その中に、我々は哲学することについての新しいアプローチや試みを発見する
しかし、プラトンの対話篇にプラトン哲学のシステムがないように、後に考え出されたようなアリストテレスのシステムもない
アリストテレスは紀元前322-321に亡くなった
古代哲学はアリストテレスで頂点に達し、それ以降は下り坂を辿った
プラトンやアリストテレスについては、学派の形成が避けられなくなった
そこで何が起こったかというと、生き生きとした問い掛けがなくなったのである
それまで哲学的に把握されたことが、すでに明らかにされていること、有益な何か、応用可能な何か、誰でも学ぶことができるものとして扱われるようになってからは尚更である
元々のプラトン、アリストテレスの哲学に属していた全てが根こそぎにされ、最早根差した何かとしては理解されなくなる
全ての哲学が辿る運命ではあるが、それが学校の哲学になるのである
問題となるのは、最早その核心においても活力においても理解されることのない豊かな材料を整理する時の視点である
このスコラ的な整理をする際の視点は、すでに明らかになった主題の結果である
一方で、哲学がピュシスと関連することで、それは人間によって作られたものとは区別した
そこからピュシスの対立概念を得る
1つは、人間の行動や活動に関わる全てで、狭い意味のピュシス(自然)とは異なっている
これはギリシア語では「エトス」で、エシックス(倫理学)の語源にもなっている
ピュシスとエトスが哲学で扱われる時には、ロゴスの中で明確に話され議論される
「もの・こと」について語る「ロゴス」は、まず教えることに関係するすべてに入り込む
古代の哲学することがスコラ的な学科になると、自分自身の問題から生き生きと哲学することではなく、科学のような知識の習得になる
それはアリストテレスが言うエピステメ、すなわち一つの科学になるのである
このようにスコラ的に構成された哲学は、論理学、自然学(physics)、倫理学という三つの学科を生み出すことになった
この傾向は、実はプラトンがアカデメイアを作った時から始まっていた
哲学がこのように分離されるのはアリストテレスのリュケイオンにも引き継がれ、さらにストア派へと繋がった
我々は、この事実を単にメモするだけでは不十分である
決定的なことは、最初からこのスコラ的な構造が哲学の概念――学校で教え学ぶものとしての哲学――を形作っていることである
そのため、新しく現れた哲学的問題は必然的に、これらのどれかに割り当てられ、それぞれの方法論で扱われることになるのである