2021年8月31日火曜日

8月を振り返って

























早いもので、もう8月最後の日を迎えた

昨年は初めての8月だったので、特に夏の植物が印象的だった

今年はもう慣れてしまったのか、昨年ほどの興奮は味わえなかった

庭の緑には茶色が混じるようになってきた



今月初め、やっとフランスから荷物が届いた

先月もそうだったが、月初めの出来事はもう大昔に感じられる

暫くの間、中身を出したままの状態だったが、少しずつ整理をする気分になってきた

探していた本も遂に見つかり、ホッとしている

その場所は何度も確認したところだったので、目の前にあるのに気付かないといういつもの症状が繰り返されている



長期プロジェだが、現在、最後の一塊に当たっている

もう一息のところまで来ていると言いたいところだが、こればかりは当てにならない

来月の月末にどんなことを言っているのだろうか

いずれにせよ、現段階における思索の跡がうまく伝わるような形にはしたいと思っている



さて、今月もコンシュさんの哲学をゆっくりと読んできた

大袈裟な書き方はしないので、そこにある微妙な表現に含まれるものを読み取るようにしなければならない

読みながら、哲学に対する一つの向き合い方を見る思いがすることがある

これまで何となく抱いていたイメージが変化したり、新しい形が見えることもある

微かな違いのようなものに気付かせてくれるのである

もう少しの間、文字面を追いながら、その奥にある世界を覗き、そして考える(瞑想する)ことにしたい

それにしてもフランス語はさっぱり上達していないようだ








2021年8月30日月曜日

コンシュ「懐疑主義と哲学の意味」(20)




















最後に、ニヒリズムが市民権を持つことができないもう一つの領域として美学がある

この言葉は、ヘーゲルと伝統が言うように、「美についての科学ーーむしろ哲学と言おうーー」である

ラランドの辞典は、この言葉を次のように定義している

「美と醜を識別するために応用するものとして、評価の判断を目的とする科学」

しかし、美学は判断だけを目的にすることができない

美それ自体に興味を示さないこともあるからである

それはドイツ人が美学と芸術の科学(Kunstwissenschaft)を区別していた時代であった

おそらく能力不足から美しい作品を生み出そうとしなくなった現代アートも芸術であるとすれば、この区別は再び取り上げなければならない



アンドレ・マルローは、ルネサンスの芸術家にとって「偉大な芸術は反論の余地がないほど美しい」という立場を採り、その美しさは「不死のスタイル」に他ならないと付け加えている

ボードレールは、「芸術作品を生み出す条件」の中に「美への偏狭な愛」を見ている

また、オスカー・ワイルドにとって「芸術家は美の創造者」であった

状況は変わった

芸術作品が醜くなければならないということではない

それは「無関心の原則」を応用することに関連する

この原則は、「そのようであるよりこのようにということはなく、あるいはどちらでもない」というピュロン主義の鍵となるフォルミュールの中に要約されている

芸術家の活動の産物は、最早醜いより美しいということはなく、どちらでもない

ピュロン主義のニヒリズムに再び出会うのである

それは芸術的ニヒリズムではなく、美的ニヒリズムであるーーそれが「芸術」であるとすればであるが

この現代性に参加している芸術家にとって、彼らがそう理解しているように、美的考慮は芸術とは無関係である

美的活動と芸術的活動は分かれているのである

これにより、美学を美についての省察に止めることができ、我々にとっては都合がよい








2021年8月29日日曜日

コンシュ「懐疑主義と哲学の意味」(19)



















今朝、今年はまだ見ないなぁーと思っていたトンボが群れを成して飛んできた

なぜか嬉しくなる

一体どこから飛んでくるのだろうか

ススキの穂もふわふわになり風になびいている

秋の風情である

さて今日もコンシュさんを読んでいきたい


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安楽死の後は、自殺の問題である

モンテーニュは「最も自発的な死が最も美しい」と言った

まあいいだろう

それはわたしの意見でもある

わたしの気にいる時にこの世から去ることができることは、大したことではない

この場合、わたしの最終的な理由を判断できる者はわたし以外にはいない

死は、検閲官が鋏で切り取るようにではなく、一つの文章を完成させる言葉として突然訪れるのがよい

しかし、道徳的義務が我々の望みを実現する邪魔をすることがしばしばである

おそらく自殺においても当てはまるだろう

わたしはまだ人の役に立つことができるが、もし彼らにとって必要不可欠でなければ、おそらく自殺する道徳的義務を持っている

しかし、わたしが人の役に立つだけではなく、彼らにとって必要不可欠であるのに自殺することは、極めて重大な道徳的誤りである

ただ、このような行動が、血縁や精神的な繋がりを持つ我々に近い人々に、乗り越えることが難しい道徳的苦しみや、失望と生きることに対する自信の喪失を引き起こす可能性がある場合には、我々が他者にとって必要不可欠でないとしても、自殺することは強く躊躇わなければならない

誰かが、間違った論理によるものではあるが、「彼は自殺した。従って、この生は生きる必要がないのだ」と思うことができないようにしなければならないのである









2021年8月28日土曜日

コンシュ「懐疑主義と哲学の意味」(18)











わたしは「道徳」について語りながら、基本原理の問題はここでは無視し、単に個々の経験に訴える

『道徳的経験』はフレデリック・ローの著作のタイトルである

彼によれば、行動する前に自分の良心に耳を傾けるだけでは十分でない

良心が言うことを、彼が言うところの「有能な人間」に相談しながら感覚として捉えなければならないという

しかし、「有能」という概念がその人に相応しいかどうかを我々は疑うことができる

道徳的経験は我々が持っている義務の経験で、他者が生きるため、あるいはわたしが言ったように「良く生きる」ために助けに来るかどうかを決めるのは我々ではない

「良く生きる」ということは良く死ぬということも意味し得る

もしわたしを最も必要としている人が希望を失い病床にある場合、誰が何らかの治療に対する熱心さによって、その人の人生が不当に延長されることがないように決めることができるのだろうか

最後の瞬間に最も有効な鎮痛剤が使われるように、誰が要求することができるのか

誰が「装置を外す」ことができるのか

医者なのか

とんでもない

医者が有能なのは、医療においてだけである

原則として、医者は患者が生きるか、生きるのを止める、あるいは死を早めるためにすべきことを知っている

この問題は何らかの能力に属するものではなく、ある教会が強いる強制ではもっとない

それは人間の感情に属するものなのである






2021年8月27日金曜日

コンシュ「懐疑主義と哲学の意味」(17)





昨日、朝のセッションから戻ると、花の周りに20くらいの蝶が舞っているではないか

こんなに蝶で溢れているのはこれまで見たことがなかったので、早速カメラに収めた

今日もコンシュさんの続きを読むことにしたい


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人工妊娠中絶の後は、戦争の問題である

戦争は多くのやり方で正当化が可能かもしれないが、これらの正当化はいずれも、道徳的な正当化の性格を持っていない

実際には、道徳的という言葉の意味において、「正当な」戦争は存在しない

なぜなら、すべての戦争は殺された無垢の人にとって不当であるからだ

カントによれば、道徳的命法のフォルミュールは次のようなものである

「あなたの行動の準則が普遍的な法の上に成立するようにあなたが望むことができるやり方で行動しなさい」

もしわたしが何らかの戦争に参加することをすべての場合に拒否すれば、わたしの行動の準則が普遍的な法になることを確かに望むことができる

なぜならこの場合、戦闘員がいないので戦争は不可能になるからである

このことは、すべての状況において平和主義者のプロパガンダが受け入れ可能で、容認できるものであることを意味しない

そうであるためには、見方と敵を無差別に攻撃できる時だけである

戦争直前にはそうではなかった

なぜなら当時、ドイツ人はこのようなプロパガンダを全く受け入れなかったからである

それ故、わたしはジャン・ジオノが1937年に『服従拒否』を出版したことを認めることがでるかどうか分からないのである

そのテーマを明確に言うとすれば、「わたしが言うことは、わたししか拘束しない」となる








2021年8月26日木曜日

コンシュ「懐疑主義と哲学の意味」(16)


























今朝、外を見ると新しい訪問者を確認

声を掛けると、数分間姿勢を変えずにこちらを見ていた

しっかりと確認するという感じなのだが、一体何を考えていたのだろうか



今月から携帯を始めたが、特徴がいくつか見えてきた

まず、手のひらの中で文章を読むことになるため、パソコンの画面で見ていた時よりも親しみが増すことである

そのためだと思うが、これまでは読むのが嫌になっていた各種雑誌からのメールも抵抗なく読めるようになった

それから、動画とか音楽などの反応が素晴らしい

というのも、これまで短期の滞在だった家のネット環境が一番低いレベルにあったため違いが際立つのだろう



さて、今日もコンシュさんを少しだけ読むことにしたい


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他者が生きるため、あるいはより良く生きるために助けることに関することなので、勿論のことだが、死なせてはいけない

普通の人間になったかもしれない人がその日を迎えるのを妨げる中絶は、法的に正当化できない

キリスト教は1世紀から人工中絶を禁じてきた

ただ、宗教的な理由は信者にしか有効ではない

しかし、純粋に道徳的な理由は普遍的価値を持つ

「自然が苦労して母親のお腹から引き出し、光が広がる側に投げ出した瞬間から、子供は裸で地上に横たわっている。喋ることもできず、生きるための助けになるものを何一つ持つこともなく」

これはルクレティウスの言葉である

全ての理性的な人にとって、また彼にとって根本にある道徳的義務は子供に対する義務である

なぜなら、子供はこの上なく弱い存在だからだ

しかし、これから生まれる子供はさらに弱い

子供は生まれることになるのか、そうではないのか

母親あるいは子供が危険な状態になるか、苦境にある場合を除いて、わたしには死に追いやる決断を正当化する如何なる理由も見えない

わたしを知っている人はおそらく、わたしが余りにも直接の関心を持ち過ぎると言うだろう

実は、わたしの父方の祖母がわたしの父を身ごもった時、すでに子供がいたことと非常に貧しかったので中絶を望んだ

そうしたら、わたしの祖父は彼女にこう言ったという

「そんなことを言い続けるのなら、二度と家に足を踏み入れるには及ばない」

もし中絶が当時の習慣であったなら、わたしの父は存在しなかったし、わたしも同様である

従って、わたしはこの上なく興味を持っていることを認める

ただそうだからと言って、わたしは間違ってはいない







2021年8月25日水曜日

コンシュ「懐疑主義と哲学の意味」(15)











倫理以上のものではないこのニヒリズムは、道徳にまで及ぶことはないとわたしは言った

モンテーニュはピュロン主義の立場の限界をここに見ていた

なぜなら、我々自身の義務を疑うことができないからである

あるいは寧ろ、我々が疑うことができない義務があると言えるだろうか

道徳的義務はカントが見ていたように、無条件の命法の形を採る

もし他者がわたしだけができる救助を必要としていれば、その人を助けるというわたしの義務は、世界で最も疑う余地のないことである

もし川に溺れている子供をわたしが見たとし、わたしだけが助けることができるとすれば、それが夢の話で、デカルトのように、川の存在を疑うことはできるだろうが、子供を助け出さなければならない、あるいは助けるように努めなければならないということを疑う余地はない

当然のことだが、もし川の畔に他の人が一緒にいれば、救助の役目を負うのがわたしであることはすこし明確ではなくなる

各々はまず血縁あるいは友情の絆で結ばれている人に尽くす必要がある

その結果、彼らにとってかけがえのない人になる

しかし、イランの地震の犠牲者に救いの手を差し伸べなければならない

そう、この義務もまた無条件なのである

しかし、この場合の義務の主体は社会全体である

なぜなら、すべての人間にはすべての人間に連帯する義務があるからである

従って、特にお金を持っていない場合には、この義務は必ずしもわたしのものではない

これに対して、わたしの両親やわたしの友人のような人が、生き、あるいは死ぬのを助けるためにわたししかいないとしたら、その人を助ける義務は絶対的に「わたしの」義務であり、それは如何なる憐憫や愛情の感情とは関係なくその人自身によって課せられるものである

このような絶対的義務は、その人が全く知らない人であれ、わたしの敵であれ、存在し得るのである

1870年の普仏戦争の際、一人の女性が負傷したプロイセン人を助けた

その時、彼が自分の息子がしていたような時計を付けているのを見て、彼が息子を殺したのではないかと類推する

それでも彼女は治療できるのが自分だけでなくなるまで彼を治療したのである








2021年8月24日火曜日

コンシュ「懐疑主義と哲学の意味」(14)




αρρεπώς(どちら側にも傾かず)

モンテーニュは、この無関心や平然としているところには止まらない

我々は、彼が不寛容、魔女裁判、司法問題、拷問、虐待、そしてあらゆる形の残忍さに対してどれだけ力強く発言することになるのかを知っている

確かに、善と悪、美と醜、正義と不正義の間には極端な違いがある

この領域では、我々は彼に従うことしかできない

しかし、ピュロンと共に、幸福を欲することは自然なことではないのだろうか

何のための人生か、幸せに生きるためではないのか

これはモンテーニュの答えでもあっただろう

しかし、わたしが始めるに当たって言ったように、哲学は真理を求めるもので、スピノザがどのように考えようが、幸福を求めるものではない

なぜなら、真理が必ずや悦びを齎すものと想定する権利は全くないからである

その上、アリストテレスによれば、喜びは活動の目的ではなく、「突然現れる目的のようなもの」で、幸福は特にそれを探していない時に得られるのと同様である

そして、哲学者の活動が齎すものの事情もこのようなものである

それは、哲学的探求の目的とは程遠いが、その条件である幸福のようなものである

それはしばしば、哲学者が省察や瞑想や自由な精神に専念することを可能にするある種の家庭的な幸福である

ベルクソンやヘーゲルやハイデッガー、あるいはおそらくソクラテスやプラトンがそうであったように、モンテーニュもこのような状態にあった

従って、わたしが理解しているように、哲学者の倫理は倫理や知恵や陶酔ではないだろう

わたしは寧ろ、「悲劇的な」知恵としたい

もしあらゆる「もの・こと」の必然的な消滅を信じるとすれば、ピンダロスが言ったように「変わりやすい流れが我々を押し流す」かもしれないが、まず生きるために、それからこの人生にできる限りの価値を与えるために、そして我々が幻想であり虚構であるすべてをご破算にすれば希望をなくす危険性がある真理に向き合うために断固とした決断こそが必要である

その上、死すべきものであることが知られている人生の基本的な調性は悲しみである

悲劇的で英雄的な知恵は、この悲しみが毎日、そして一日中乗り越えられるよう要求する

また、特に他者を考慮して、悲しくならないよう、喜びに理があるよう要求する

簡単に言うと、ニヒリズムの根底には知恵のカギである勇気がある






2021年8月23日月曜日

コンシュ「懐疑主義と哲学の意味」(13)



















わたしはそれを否定しない

人生を純粋な見かけ、すなわち癒すことのできない儚さに還元することーーなぜなら、モンテーニュが言ったように、永続性でさえ「活気のない揺れ以外の何ものでもない」のでーー

この見方は、人生の基本的な調性を悲しみの中に見るようにわたしを導く

悲しみを消すことは全くないまま、人生には喜びが加わる

しかし、この中では、わたしは最早ピュロン主義者ではない

全く反対に、わたしはピュロンから大きく遠ざかるのである

わたしが今説明しなければならないのは、この違いである

ピュロンのニヒリズムは単に個別の存在者と存在そのもののニヒリズムではなく、殆ど普遍的なニヒリズムである

それに対して、わたしは個々の存在者と存在それ自体のニヒリズムは支持するが、その他の点に関しては、できるかぎりニヒリストではないという違いがある



わたしは倫理、道徳、政治、美学、勿論、子供の教育のいずれについてもニヒリストではない

わたしは、ピュロンのニヒリズムは「殆ど」普遍的であると言った

なぜなら、本当のことを言えば、ピュロンは倫理のニヒリストではない

もう一度触れると、倫理あるいは智慧は、人生は何になるのかという問いに答える

一方の道徳は、われわれが他者に対してしなければならないことに関するものである

ピュロンは他者にしなければならないことは何もないと考える

彼は道徳のニヒリストである

しかし、「人生は何になるのか」という問いには、彼は幸福に生きることと答える

ピュロンによれば、幸福に至る簡単な道は無関心である

アジアでアレクサンドロス大王のお供をしたピュロンは、多くの人々の習慣を観察した

彼はそこから、パスカルが「ピレネー山脈の こちら側での真理が、あちら側では誤謬である」という有名なフォルミュールで表現することになる結論を引き出したのである

勿論、ピュロンはピレネー山脈があることは知らなかったのだが、、

ディオゲネス・ラエルティオスによれば、「ピュロンは美も醜も、正義も不正義もなく、同様にすべてのものことについて、何ものも真理ではないこと、すべての人間は約束事や習慣にしたがって行動すること、なぜなら、それぞれのものことは、これであるよりあれだということはないと主張した」

したがって、如何なる判断も、それが肯定的なものであれ、否定的なものであれ、信用すべきではない

「判断なしで、どちら側にも傾かず、揺るがずにいるべきである」とピュロンの弟子のティモンは説明する

モンテーニュは、彼の「書斎」の梁間に αρρεπώς(どちらの側にも傾かず)という言葉を刻ませた

ティモンは続ける

「この資質から生まれるものは、まず失語症であり、続いてアタラクシアである」

アタラクシアとは、魂に「乱れ」のないこと、完璧な平穏、平静、幸福である

「美も醜も、正義も不正義もない」ので、美学のニヒリズム、道徳のニヒリズムと言うことができる

しかし、アタラクシアがその反対よりも価値があり、不幸より幸福が望ましいので、倫理のニヒリズムと言うことはできない








2021年8月22日日曜日

コンシュ「懐疑主義と哲学の意味」(12)












この悲しみは、特に、なくてはならない人々を失った老人のものである

ヘーゲルは、一般的に終わったものから来る「悲しみ」(Trauer)について語っている

「有限性」(Endlichkeit)が絶対化される時、つまり、それが本当に真剣に受け止められる時、すでにいた人がいなくなるということは、決定的でどうしようもないものとして考えられる

悲しみについてモンテーニュは、「愛しもしないし、高く評価もしない」と言っている

しかし、憐憫の情は悲しい心である

モンテーニュは憐憫の情を経験している(この点で我々はそれをブッダに結びつけることができた)

「わたしが畑を与えないものから生きた動物を取ることは殆どない」

彼は狩猟が嫌いで、「防御の術もない、我々が何の攻撃を受けたわけでもない無垢な動物を追い、そして殺すのを不快感なしに見ること」ができない

降伏した鹿が「涙ながらに我々に慈悲を求める」姿は、「非常に不快な見世物」である

彼は、「人類の普遍的な義務は、命と感情を持つ動物だけに限らず、木々や植物にまで及ぶ」ことを認めている

なぜなら、「木々でさえ、加えられた攻撃に対して悲鳴を上げているように見えるからである」と彼は言っている

今日、我々は種が消滅するのを見ている

どうしてそこに悲しみを感じないことができようか

わたしはキジバトやアザラシやクジラなどを支持している

このように、有限なものが消えていくということは、悲しみなしにはないのである

ギリシア人が強く感じていた存在の生まれ持った憂鬱がある

「これが神々が哀れな死すべきものに紡ぐ運命である。悲しみに生きること。一方、神々はすべての心配事のないままである」とホメロスは書いている

種が消滅することは何と悲しいことだろうか

しかし、キジバトもアザラシもクジラも、我々にとって本質的なものではない

全ての人生を真に暗くする悲しみは、我々の愛が向かっていた唯一人のかけがえのない人の死や不在の悲しみである

我々が失うものは、まさしくその光、その日没、その木々と花のある世界である

我々はそれらの世界をその人と見ることに慣れていたので、その人がいないと、もうそれらを見ることができないのである






2021年8月21日土曜日

コンシュ「懐疑主義と哲学の意味」(11)

















純粋な仮象(見かけ)の哲学は、ピュロン主義である

厳密な意味において、それはピュロンの哲学である

「純粋な」見かけとは、一人の存在の見かけではない

なぜなら、見かけに帰着しない存在はないからである

見かけには本質がない

それは何を意味しているのか

例えば、庭のバラを考えてみよう

その連続する状態を通して変わらないバラの存在はあるだろうか

それはないーーそこには連続する状態しかない

しかし、わたしは60歳と30歳で変化したが、同じではないのか

わたしの中に永遠に変わらない根源的なもの、わたしの「魂」はないのだろうか

それについてどんな実験もしていないが、デイヴィッド・ヒュームが示したように、我々はそれを信じることはできる

しかし、ピュロン主義者はそれを信じない

ほんの短い間でわたしは変わるーー常に最もわたしに似ている人のままではいるのだが、、

人生は常に新しい瞬間から成っていて、他の波が消していく波のように、それぞれの瞬間は消えていく

確かに、波は覚えていないが、わたしは覚えている

そして、かつて在ったものをなかったことに、あるいは生きたことを生きなかったことには何ものもできない

なぜなら、ピンダロスが言ったように、「すべてのものことの父である時間でさえ、それを成し遂げることはできないのである」

人生における最良のことは、すでにあったことである

まさに、それらはあったのである

そして、彼らが愛した男、女はいないという考えが、まだ生きている人たちの人生を救いようのない悲しみで圧し潰す

純粋な見かけ、絶対的仮象

それは、何の本質も示さず、イメージ以外何も残さずに流れる人生である

ピンダロスは言う:「カゲロウ」、それが我々である、「人間は影の夢である」

ソポクレスは言う:「わたしは、ここに生きる我々すべては亡霊であり、微かな影に過ぎないことがよく分かる」

この文章は、モンテーニュがいつも目の前に見えるように、彼の書斎の梁間に刻ませたものである

人生は消えゆくものである

我々は愛された存在に出会う

そして、何が起こるか

ピンダロスは言う

「神々は人間の上に一条の光を向ける。輝かしい閃光が人間を包む。そして人生の時は蜜のように流れる」

しかし、幸福な日々には終わりがある

そして、愛された存在が最早いない時、人生は非常に悲しくなる

水のように流れるこの束の間の人生以外何もないので、救いはどこにもないのである








2021年8月20日金曜日

コンシュ「懐疑主義と哲学の意味」(10)










それに対して、わたしは神や絶対的あるいは至高の存在という考えを遠ざけたので、モンテーニュとはこの点で違う立場を採り、存在そのもののニヒリズムを支持している

しかし、わたしはパルメニデスにコメントしたが、パルメニデスの εστι(esti)が、それ自体で在り、自力で存続するどの絶対的存在なのかわたしには分からないが、そのような絶対的存在を指しているのではなく、単に「在る」ことを意味している

「在る」ものについて言えば、それは個々の存在者(onta)である

しかし、これらの存在者は本当にそうなのか

この問いに対するわたしの答えは、モンテーニュの答え、すなわち個々の存在者のニヒリズムである

デカルトと異なりモンテーニュは、存在の問題を明確に問う

「存在」と言われるに値する存在とは何なのか

「在る」とは本当は何なのか

モンテーニュは問う

「なぜ我々は永遠の夜の無限の流れの中で閃光にしか過ぎないこの瞬間の存在ーーそれは我々の永遠の自然な状態の本当に短い中断なのだがーーという肩書を取るのだろうか。ーー実は、死がこの瞬間の前と後、そしてこの瞬間のかなりの部分を占めているのだが」

それは50年、あるいは80年かもう少し長い人生なのだろうか

無限の時の中では一瞬である

無限の時のすべての間、短い中断を除いて、我々はまだ存在していないか、もう存在していない

それは、我々の前と後の無限、エピクロスの非生命、ルクレティウスの永遠の死(mors aeterna)である

唯物論は死の哲学である

我々は唯物論に非常に近いところにいるーー魂の永遠もなければ、何かが生き残ることもないーー

非常に近いか、そこを超えてさえいる

なぜなら、モンテーニュがやった存在という考えを問うことを唯物論はしないからである

「これほど短い」時間しか生きないし、存在しない、これで本当に存在しているのか

自称「個々の存在者」が何らかの自分自身のアイデンティティを維持しているとしても、我々は常に変わっている

「一定の存在は何もない、我々の存在も物体の存在も」とヘラクレイトスと共にモンテーニュは指摘する

「そして、我々、我々の判断、すべての死すべきものは、休むことなく流れ、転がる」

結論は「我々は存在と全くコミュニケーションが取れていない」ということである

語るべきは「存在」ではなく、「漠然とした見かけと影」である









2021年8月19日木曜日

コンシュさんを瞑想しながら読む
























このところ、コンシュさんを真面目に読んでいる

一筋縄ではいかないところがある

まず、知識の問題がある

一行に何度も調べなければならないことが出てくることがある

その上で、言いたいことを想像しなければならない

コンシュさんも言っているが、瞑想しなければならないのである

それが哲学のやり方だという考えである

コンシュさんの形而上学を学ぶには、手間のかかる作業を繰り返さなければならないだろう







2021年8月18日水曜日

コンシュ「懐疑主義と哲学の意味」(9)












しかし、もし我々が神の概念を放棄すれば、崩壊するのは建物全体である

わたしは『哲学的オリエンテーション』の中で、有機的な全体性としての現実全体という考え、そして普遍的な秩序や感知される世界、勿論(神の)摂理という考えだけではなく、(絶対的)真理、人間(当然の権利としての人間)の真理、そして最後には存在という考えをどのようにして捨てなければならなかったを説明した

それが行き着いたところは、存在論的ニヒリズムであった

そこで何を理解しなければならないのだろうか

わたしは、個々の存在者(l'étant)のニヒリズムと存在それ自体(l'être)のニヒリズムとを区別したい

存在それ自体のニヒリズムは、絶対的存在の概念に照準を定めている

個々の存在のニヒリズムは、これやあれや、この机、この椅子の存在を対象としている

デルポイのアポローン神殿の入口(pronaos)に、有名な箴言の横に、最初は木製で、それから青銅になり、そしてアウグストゥスの時代にはついに金製になったE(エプシロン)があった

プルタルコスの対話篇『デルポイのEについて』では、プラトン派の哲学者アンモニオスが次のように解釈している

Eとは、εί「あなたは存在する」の最初の文字だろう

それは神への挨拶のやり方である

エウセビオスキュリロステオドレトスのような教父は、プルタルコスのこの箇所を引用した

エホバはモーゼに「わたしは存在する者である」と言わなかったか

これを現代風に解釈すれば、「わたしは本質が存在することである存在者である」となり、本質によって存在しているのではないために存在することができない有限の存在者とは異なる

モンテーニュは自身のインスピレーションからではなく、プルタルコスを書き写してこう書いたのは本当である

「神だけが存在する・・・神以外に真に存在するものはない」

モンテーニュのニヒリズムは、個々の存在者のニヒリズムである

なぜなら、神以外の存在は真に存在していないからである

しかしそれは、存在それ自体のニヒリズムではない






2021年8月17日火曜日

コンシュ「懐疑主義と哲学の意味」(8)















モンテーニュやデカルトは一人称で哲学する

わたしもそうやってみようではないか

わたしは不変ではない、明日は変わっているかもしれない政治的、経済的意見ではなく、わたしの「経験された確信」を語るようにしている

この確信は不変ではないがーーすべては不変ではないーーゆっくり進化し、わたしの人生の最後まで殆ど同じままでいる可能性が高い

昔、ここトゥールーズで「絶対」悪としての子供の苦しみについて語ったことがある

それは、わたしがどんな神の摂理とも相容れないと判断した悪ーー不幸ーーのことであった

議論には実証的価値がないことは認める

それを除けば、神の存在の問題はきっぱりと否定されて解決されるだろう

いずれにせよ、わたしにとってこの問題はケリがついたのである

さらに、神ーー超越的な神ーーの概念は暫くの間、空疎で対象のない概念に過ぎないものに見えたのである

宗教がなければ、その意味を見出すことは不可能だろう

神という概念は哲学的概念ではない

神が役割を担う哲学は不純な哲学である

真の哲学というよりは、そして多くの哲学的解析と議論がなされてはいるが、それは宗教的イデオロギーである

西洋では、それはキリスト教のイデオロギーになる

デカルトやカントの体系はこのようなものである






2021年8月16日月曜日

フランスの日常を日本に取り込む















フランスから荷物が届いてから10日ほど経つが、なかなか手を付ける気分にならなかった

どのようにオーガナイズするのか、アイディアが浮かんでこなかったからだろう

徹底的にではないが探していた本も最後の1冊が見つからず、すべてを整理し直さなければならないと考えるようになった

この休みに(と言っても世の中は、であるが)「ひっくり返す」作業を少しずつ始めた

それをやっているうちに、その先に来るべき姿が浮かんでくる

ここ暫くは、この作業を続けることにした


それから部屋に置いていた小物も届いているので、それをどのようにアレンジするのかも考えなければならない

現在の場所は長期的に見ればテンポラリーになるかもしれないが、短期的に見れば落ち着くところになる

そこに小さいながらもフランスで身近にあったものを置くことにより、これまでとは違った心理効果が現れるのではないか

そんな期待とともに、これから楽しむことにしたい






2021年8月15日日曜日

コンシュ「懐疑主義と哲学の意味」(7)















カントは、単なる意見と、その試金石が賭けである揺るぎない確信を対立させる

しばしば起こるのは、誰かが自信に満ち、妥協を許さない大胆さで提案するので、間違いを犯す心配は全くないように見えることである。賭けが彼を考えさせる。彼は時に自分の説得が10デュカではないが、1デュカに値すると確信する様子を見せる。確かに彼は、最初のデュカを危険に晒すだろう。しかし彼は、それまで気付いていなかったこと、すなわち彼が間違っていたかもしれないことに気付き始めるのである。そのことに全人生の幸福を賭けなければならないと想像してみよう。そうすると、我々の成功した判断は完全に崩壊し、恐れを抱くようになり、我々の信念がそんなに遠くまで行かないことを発見し始めるのである。

神は存在する、あるいは存在しない、魂は永遠である、あるいはそうではないと信じているとあたなは言う

あなたは、自分の財産を、例えば、もし間違えば全身に癌が広がることを了解した上で、自分の健康を危険に晒す準備はできるだろうか

このような仮定は、たとえ純粋に架空のことではあるかもしれないが、信念の確実性のなさを明らかにするには十分なのである







2021年8月14日土曜日

コンシュ「懐疑主義と哲学の意味」(6)

































最早、哲学するとは単に議論することではなく、瞑想することである

議論自体は残っているが、それは何も決めることはない

あちら側ではなくこちら側であることを吟味することにより決定に導くのは、瞑想する哲学者の考え抜かれ、練り上げられた選択である

瞑想とは、自分自身に耳を傾ける聴診のようなものである

魂と良心において、本当に信じていることを自問することである

瞑想的省察の結果は単なる選択ではなく、「体験された確信」である

エリック・ヴェイルはヘーゲルの文中にある Gesinnung という言葉をこう訳したのである

哲学において、人間は「少なくとも体験された確信(Gesinnung)に到達しなければならない。それは、カントの100ターレルがポケットに入っていようがいまいが、有限の人生にいようがいまいが同じように超然とさせるものである」とヘーゲルは言った

哲学者であろうがなかろうが、それぞれ意見を持っている

感化されたり、気分や流行などにより変動するものもあれば、長期に亘って持続する性質のものもある

しかし、「魂と良心において」態度を決めるために自分自身に向けた命令の結果としての「体験された確信」は哲学者だけのものである











2021年8月13日金曜日

コンシュ「懐疑主義と哲学の意味」(5)


















久し振りにコンシュさんの「哲学の意味」に戻ってくることができた

また、ゆっくり読んでいきたい


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それにもかかわらず、形而上学的問題に関しては懐疑主義は正しいのである

それを望むか否かに関わらず、形而上学的懐疑主義は現代のすべての哲学者の共通の宿命である

しかし、我々は判断の停止に留まるつもりなのだろうか

哲学者はその解決法を知らないだろう

ここにいるのは本物の人間である哲学者である

哲学するということは人間存在と無縁ではない

あれではなくこれを食べるとか、他の仕事ではなくこちらをやるとか、ある政治的意見や宗教的信仰を持つという事実のように

なぜなら、肉を食べようが野菜を食べようが、金細工職人であろうが道路清掃人であろうが、共和国連合を支持していようが社会党のために活動しようが、キリスト教徒であろうがイスラム教徒であろうが、それでも我々は人間だからである

一方、哲学者でなくなった人間は、人間としての地位を失うことになり、植物や動物、あるいは神のようになるであろう

「人間にとって当然のことは、哲学することなしに生きることはしないことである」とわたしは書いた

わたしにはいつもそのように見える

ハイデッガーは非常にうまく言っている

我々は哲学について明確には何も知らないかもしれないが、我々はすでに哲学の中にいる。なぜなら、我々は長い間哲学している・・・という意味において、哲学は我々の中にあり、我々自身の一部を構成しているからである。人間としてここに在るということは、哲学することを意味しているのである。

実際、如何なる人間も生と死、あるいは人間についての何らかの考えを持たずに生きることをしない

この場合、そうと知らずに哲学者であるのと同じくらい、誠実に哲学している 

しかし理性が、一時的ではなく決定的な形で、決定不可能なものを前にしてどのように哲学すればよいのだろうか

懐疑主義の体制の中でどのように哲学すればよいのだろうか

それにもかかわらず、朝起き、ある人生が選択され、決断が行われるという単純な事実から、それは必要なのである






2021年8月12日木曜日

瞬間瞬間が意味を持つ緊張感溢れる道行の条件
























昨日はこのブログに驚いた

今朝、そのことについて、パリの院生時代とその後の生活という視点から一つの考えが浮かんできた

昨日、学生時代は感覚器が異常に興奮していたと書いた

いつどのような形で終わるか分からないものの、学生でいる間、その全体が頭の中に納まっていた可能性がある

その全体の中で、「いま・ここ」が位置付けられていたのではないだろうか

「いま・ここ」を自らの歴史の中でしっかりグリップしていたと言えるかもしれない



しかし、院生を終えた後はそのグリップが失われていたのではないだろうか

つまり、学生に代わる新たな全体がないまま歩んでいた可能性である

そのため「いま・ここ」が自分にとって意味付けされないままになっていたのではないか

これまで、例えば、翻訳を二つ終え、現在2つのプロジェに当たっている

これらにしても大きな枠組みの中で捉えられていなかった可能性が高い



ただ、院生を終えてすでに5年が経過し、これまでの時間を振り返る機会が増えている

その中で、いくつかの結晶化しつつある考えが生まれている

その一つは『わたしの方法序説』とでも言えるもので、一方のプロジェはそれを綴っていると見ることもできる

さらに言えば、もう一つのプロジェはそれを元にした最初の試みと捉えることができる

このように、これからの歩みの基本が手に入った状態にあるとも言えるだろう

もしその歩みの全体を頭に描きながら進むことができれば、これからの「いま・ここ」も立ち上がってくるのではないか

瞬間瞬間が意味を持つ緊張感溢れる道行になるのではないか



こんな考えが浮かんだ朝であった