2022年5月1日日曜日

シェリングの『学問論』を読み始める



















本屋さんで帯に惹き付けられ、手に入れた

新訳として出たばかりのシェリング(1775-1854)著『学問論

帯には「国家は哲学に対しては無制限の自由のみを与える義務がある」とあった


まず、後ろにあった本書の成立背景や解説に目を通す

わたしの中に出来上がっているものとほぼ完全に重なる内容のようである

シェリングの考えはその後のいろいろな本にも表れていると思われる

それをわたしも読み、納得したために自分の考えとして沈殿して行ったのかもしれない


「自分の考えを知るためには、過去人を読まなければならない」というフォルミュールを作ったことがある

そのメカニズムは、実はこういうことだった可能性がある

シェリングの主張は大体予想されるが、読み進むことにしたい






2022年4月30日土曜日

4月を振り返って














4月ももう終わりになった

今月やったことを以下にリストアップしてみたい


1)免疫に関するエッセイのファイナルバージョンを作成した

興味深いと思ってくれるところがあることを願うばかりである


2)「医学のあゆみ」のエッセイシリーズを纏めた本の形が明らかになった

タイトルは『免疫学者のパリ心景―新しい「知のエティック」を求めて

医歯薬出版から6月22日刊行予定となった

外側は非常にいい感じに仕上がっている

中身についても期待を裏切ることはないとは思っているが、こればかりはお確かめいただく以外に道はない

幅広い方に届くことを願っている

是非、お手に取っていただければ幸いである


3)ヒラリー・パットナムのエッセイを読んだ

今月は本棚で偶然見つけたヒラリー・パットナム(1926-2016)のエッセイ集を読むことになった

論理展開が小気味よく感じた記憶を頼りにしたものだったが、途中から付いて行けなくなった

好みの哲学者になるかとも思ったが、残念ながらその中には入らなさそうである


4)函館まで短い旅に出た

縛りから解放されたように思った時、突然出かけることにした

そこでは忘れていた過去が蘇り、貴重な経験となった

ただ、インパクトから言うと外国での経験とは比較にならない

そうではあるが、機会を見てどこかに出かけるのも悪くはないだろう






2022年4月29日金曜日

久し振りの会食













今日は久しぶりの会食となった

写真右から、長谷川、片桐、西川の各氏

前回集まったのがいつだったのか調べたところ、2019年秋になっていた

コロナ禍とはいえ、久し振りである


今回は西川氏が旭川医大の学長になったばかりだったので、お祝いを兼ねての会食となった

長い間、前学長が「独裁的」な運営をしていたとのことでニュースにもなっていたようだ

長い間だったために独裁的になったのか

あるいは、独裁的な人物だったので長く留まろうとしたのか

いずれにせよ、現象をそのまま(科学的に)表現するとすれば、最初の表現となる

ということで、新学長には古い柵を解きほぐしながら、新しい大学を再建する仕事が課せられているようであった


前回も話題になっていたが、大学の目的が職業教育をすることに絞られていることに違和感があるというお話であった

その違和感にはわたしも共感するのだが、役人も含めた社会が要求しているのはそのレベルだという

遊びの部分がなくなり、広い意味での技術習得だけが教育の前面に出てきているようであった

我田引水ではあったが、拙エッセイ『免疫学者のパリ心景』には現在の流れに対するカウンターの視点がふんだんに含まれていると紹介させていただいた

学生さんや医療に携わる(若い)方にも読んでいただければ幸いである


日頃は頭の中で会話を繰り返しているが、偶には face-to-face の会もよいものである

また機会があればお会いしたいものである

ところで、今年はサイファイ研のカフェ、フォーラムを開くことができるだろうか

今の感触では秋にどうなるかというところだろうか

もう少し様子を見てみたい







2022年4月26日火曜日

トンネルを抜けると・・・


























このところ、先日の函館行の前の気分を確認する日々が続いている

身も心も軽くなり、これまでのどこかに籠っているような感じがなくなっている

長い目で振り返れば、これは十数年振りのことではないかという気もしてくる

暫くこの状態を味わうというのも悪くないのではないか

縛られることなく自由な気分で過ごすのも面白そうだ









2022年4月25日月曜日

ホワイトヘッドによる哲学



























ホワイトヘッドが考えた哲学の機能とは

哲学はすべての知的探求の中で最も効果的なものである

それは職人が石を動かす前に大聖堂を建てるものであり、精神の建造物の建築家である

精神的なものが物質的なものに先行するのである

哲学はゆっくりと動く

思想は長い間休眠する 

そして、言わば突然、人類はその思想が制度の中に具現化されていたことに気付くのである 

 




 

2022年4月24日日曜日

戦争と政治と哲学

























今月の初めに観たウクライナ情勢についてのテレビ番組のことが思い出された

やはり基本は敬意を払った話し合いか(2022.4.3) 


戦争はなくならない

国がある以上、場合によっては自らの立場を護る必要があるからだ

自己保存はオーガニズムの本能とも言えるものである

そして、戦争は富と結び付いている

富を求めるのも本能に近いのではないだろうか

人間には本能と感情があり、それがしばしば冷静な思考と判断を狂わせる

哲学が教える思惟は、本能や感情から離れたところに身を置いて観察し思考することである

本能や感情を制御することが必要条件になる

その思考が戦争に向かう道を避けることに繋がるかもしれない


哲学や学問が戦争を止めることができなかったというような話が聞こえてきた

それを直接的に哲学者や学者に求めるのは無理だろう

そんな力は持っていない

具体的に戦争を止めることができるのは、政治に関わっている人間であるはずだ

その意味では、この戦争がどのようにして始まったのかの検証が必要になるだろう

戦争を始めるのも止めるのも政治家であるとすれば、彼らが本能や感情から離れた思惟と判断をする手段としての哲学を身に付けることには大きな意味があるのではないだろうか

それ以前に、政治家を選ぶ我々がそのような思考をできるようになっていることが欠かせないのだが、、

このように考えると、上で特徴付けた哲学は政治においても基本的なところで極めて重要になることが見えてくる

勿論、即効性はないが、我々はこのように知性を鍛えていく必要があるのではないだろうか











2022年4月23日土曜日

トマス・ネーゲルさんの言葉を聴く



























パットナム(1926-2016)さんを続けようと思ったのだが、議論がわたしの興味から外れてきたようだ

付いて行けなくなったと言った方が正確かもしれない

これが分析哲学の議論なのだろうか

好みの哲学者に入るかと思ったのだが、現段階では見込み違いであったと言わざるを得ない



その代わりというわけではないが、トマス・ネーゲル(1937- )さんの言葉に耳を傾けてみた

我々はこの世界に投げ出されており、その状態を外からと内から、客観と主観で理解しようとしている

どちらか一方だけでは駄目で、その兼ね合いが問題である

例えば、この世界はすべて客観的に理解できるとする科学主義のような観念論は、我々を含めた世界の理解を貧しくするだけだろう

なぜなら、それ以外のものを捨象してしまうからだ


真理の探究には、想像力以上のものが必要になる

そこで求められるのは、他の可能性を、理想的にはなくなるまで、徹底的に排除すること

それだけに打ち込む状態にならなければならないということなのだろうか


また、こうも言っている

哲学を実際にそうであるより浅く難しくない何かに変えようとする誘惑が常にある

哲学は極めて難しいテーマであり、創造的な成果は稀にしか成功しないという一般的な規則に例外はないのである







2022年4月22日金曜日

パットナム「自然主義の中身と魅力」(4)

























「『自然主義』の不安定性」(2)


「自然主義者」自身によって最も還元主義的説明に抵抗するので、彼らから見れば問題があると見做されてきた言説の領域は、直接の言及、意味、信念、欲求のような「志向性のある」言説である

ただ、数学も同様に、しばしば問題と見做されている

なぜなら、よく言われるように、「我々は数学的実体と因果関係をもって相互作用できないから」

すでに19世紀にはブレンターノが自然主義的で物理主義的な心の説明を論駁するために、志向性の還元不可能性を取り上げていた

クワインは志向性が還元不能であるという点でブレンターノに喜んで同意するが、それは真の現象ではないと結論した
「ブレンターノの考えは、志向に関わる表現が不可欠であることと志向の自律的な科学の重要性を示すものとして、あるいは思考に関わる表現の根拠のなさと志向の科学の空虚さを示すものとして受け入れることができるかもしれない」
わたしの立場は、ブレンターノとは異なり、後者になる













2022年4月21日木曜日

パットナム「自然主義の中身と魅力」(3)

























「『自然主義』の不安定性」(1)


第1級の概念システムに含まれるものに関して言えば、クワイン(今日で言えば、サイモン・ブラックバーン)とバーナード・ウィリアムズはミニマリズムと呼ばれるものを代表しているが、そんなに多くの我々の言説を「第2級の概念システム」の範囲に退けるという考えに多くの自然主義者が居心地よく感じないのは理解できる

そしてこの居心地の悪さは、一部の「自然主義者」を以下のプロジェクトに駆り立てた

彼らは、クワイン、ブラックバーン、ウィリアムズらが第1級のシステム(ウィリアムズによれば「世界の絶対的概念」)から追い出した大部分は、実は第1級のシステムに「還元される」ことを示そうとしたのである

つまり、「自然主義者」の一翼が(物理主義的)「存在論的還元主義」の方向に押されたのである

リチャード・ボイド、そしておそらくジョン・レイルトンのような最も野心的な存在論的還元主義者は、倫理的に善であることの性質までも復権しようとしたが、そこまで行く哲学者は稀であった

ジェリー・フォーダーが有名だが、他にも「意味」の物理主義的説明をしようとした人たちがいる

さらに、ハートリー・フィールドペネロプ・マディのような人たちは、数学の内容についても物理主義的説明をしようとした

問題は、このような存在論的還元主義が身近なサークルや少数の友人や教え子以外に支持者を得られなかったことである

そして、哲学においては常である「後ずさり」が始まるのだが、一体「自然主義者」はどこに後ずさりするのだろうか








2022年4月20日水曜日

パットナム「自然主義の中身と魅力」(2)

























「多元主義」


すべての認知のためには一つの言語ゲームで十分であるという考えを否定するのが概念的多元主義であると定義することは可能である

しかし、それはあまり助けにならない

「自然主義者」も条件付きで、そう認めるからである

最も一般的な条件は、クワインが言う第1級の概念システム(科学、あるいは適切に形式化された科学)と「第2級の概念システム」の識別に代表されるものである

周知のようにクワインの主張は、第1級の概念システムだけが我々が真面目に相手にすべき世界を含んでいるというものであった

例えば、物理学の概念システムには「意味ありげな事実」に対応するものは何もない

そのような事実に最も近づくことができるのは、わずかにスキナー(1904-1990)流の行動主義心理学である

もしスキナーの心理学が意味の説明をできないのだとすれば、意味にとっては最悪である

他の「自然主義者」は第1級と第2級の間の線を別のところに引くかもしれない

「自然主義」の大部分のバージョンに共通するのは、狭義の科学的第1級のシステムに合致しない概念的力や活動は、正真正銘の理性的な言説には満たないものと見做されるということである


わたし自身の概念的多元主義の核心にあるものは、「自然主義者」によって十分に理性的言説になっていないと見做されるいろいろな言明は、ジェームズ・コナント(1893-1978)が言ったように、「他のいずれの言明と同じように、真理と正当性の規範によって十分に支配されている」正真正銘の言明であるという主張である










2022年4月19日火曜日

新著『免疫学者のパリ心景』のご紹介


























すでに触れたように、エッセイシリーズ「パリから見えるこの世界」を纏めた本が6月に刊行される予定である

その本の情報がすでにネットに出ていることを本日発見

以下に紹介したい


6月22日刊行予定となっている

350ページほどだが、独立して読むことができるものが集まっているので、ゆっくりお付き合いいただければ幸いである


よろしくお願いいたします









2022年4月18日月曜日

啄木の切り絵届く



























先日の函館文学館のパンフレットで見た切り絵がよかったので注文したところ、今日届いた
岩城之徳、後藤伸行著『切り絵 石川啄木の世界』(ぎょうせい、1985)
早速眺めてみたが、やはり良い

過去を現在に呼び戻して生きようとしている者、その雰囲気を好ましいものと思う



文学館で手に入れた歌集からいくつか

教室の窓より遁げて

ただ一人

かの城址に寝に行きしかな


蘇峯の書を我に薦めし友早く

校を退きぬ

まづしさのため


年ごとに肺病やみの殖えてゆく

村に迎へし

若き医者かな


目になれし山にはあれど

秋来れば

神や住まむとかしこみて見る


しらなみの寄せて騒げる

函館の大森浜に

思ひしことども 


世わたりの拙きことを

ひそかにも

誇りとしたる我にやはあらぬ 

 



 


2022年4月17日日曜日

パットナム「自然主義の中身と魅力」(1)
























数日のブレイクであったが、少しスッキリしたように感じられる

気分が変わったところで、新しいパットナムさんを読むことにしたい

今回は、2004年の「自然主義の中身と魅力」というエッセイである

早速、最初のセクションから始めたい


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タイトルが示唆するように、わたしが問題にする「自然主義」に関して二つの問いがある

一つは、「自然主義者」であるということは何を意味しているのか

もう一つは、この立場が極めて不明確で多くの問題を抱えているにもかかわらず、なぜ「自然主義」がかくも魅力的なのか


「『自然主義』の中身」


今日、最も一般的な「自然主義」の使われ方は以下のようになるだろうか

哲学者は――形而上学、認識論、心の哲学、言語哲学について書いている大多数の哲学者がそうだと思われるのだが――彼らのエッセイや自著の目立つところで、自分は「自然主義者」であること、あるいは擁護されるべきは「自然主義的な」見方であることを宣言している

この宣言は、スターリンのソ連で書かれた論文における、ある見方はスターリン同志のものに一致するという宣言と似ている

つまり、「自然主義的」でないもの(スターリン同志の見方に一致しないもの)はすべて受け入れ難いものであり、正しいものではあり得ないことになる

それから一般的な特徴として、「自然主義」が定義されていないことが挙げられる


唯一つの例外として、ボイドギャスパートラウトの『科学の哲学』がある

この本の用語説明に、自然主義は以下のように定義されている
すべての現象は自然法則に支配される、あるいは・そして自然科学の方法があらゆる研究領域に適用されるという立場
しかし、この定義は「選言的」であり、2つの異なる要素がある

我々は2つの「自然主義」の定義を提示されているのである

この点について考えてみよう


最初の定義によれば、自然主義者とは「すべての現象は自然法則に支配される」と信じる哲学者のことである

これは何を意味しているのだろうか

次の「現象」について考えてみよう

普段は明快な文章を書く人が、理解不能のパラグラフを書いたとする

この定義による自然主義者は、この現象は自然法則の支配下にあると考えなければならない

これが意味するところは明確だろうか

この難解な文章を書いた人は、もちろん自然法則を侵してはいない

もし自然主義者であるために必要なことが自然法則を侵す現象はないと考えることだけだとすれば、「自然主義者」でない人はいるだろうか

あるいは、自然主義者は「難解」という概念を含む自然法則があると信じることを求められるのだろうか


他方、第2の定義によれば、自然主義者とは「自然科学の方法がすべての研究領域に応用可能である」ことを信じる哲学者になる

それでは、自然科学の方法を「文章解釈」に適用するとはどういう意味だろうか

あるいは、文章解釈は「研究分野」ではないというのだろうか

もし、すべてのこと(例えば、論理実証主義者がかつて唱えたように歴史は科学である)には物理学に似た科学があると信じることが関係しているとするならば、なぜそのようなあり得ない見方を採らないことがまともとはされないのだろうか


一見すると、非常に多くの哲学者がその意味するところをはっきり説明することなく、自身を「自然主義者」と堂々と宣言するということは、「自然主義」には明確な中身が全くないということを示唆しているのかもしれない

しかしその考えは間違いで、わたしが批判しているこの言葉の科学的理解における「自然主義」には中身がある

しかし、不幸な言葉である「自然主義」は、その中身を明らかにするのではなく、隠してしまうのである

それが何なのかを知るためには、科学的自然主義の「敵」が何を擁護しているのかを考えなければならない

彼らが擁護しているのは勿論「超自然」でも「オカルト」でもない

ただ「自然主義」は、敵が擁護するのはこれらのものであると示唆するのではあるが、、、、

彼らが実際に擁護しているのは寧ろ、「概念的多元主義」なのである

それでは「概念的多元主義」とは何なのか












2022年4月16日土曜日

函館最終日、哲学のことなどを思う

























人生とはこんなものである

これから離れるというその日に見事な快晴となった


今回再確認したことがある

それは、時間が消えるという経験は至福に繋がるということである

一日にそのような時を味わっているとすれば、それすなわち幸福な時間になるということである

そういう時のある一日は長い

一日をたっぷり味わっているという感覚になる

このテーマについては、6月に出る予定のエッセイ本でも取り上げている



ところで昨日、五稜郭から戻った後、カフェに暫く腰を下ろしてからホテルに戻ることにした

その時、もう10年程前になるデン・ハーグで同じようにしている時と重なり、今どこにいるのか分からなくなった

ある意味では、時空が消えているのだ

その感覚の中、老年期に入っていると思われる日本人哲学者による日本の哲学の現状分析を読んでいた

いろいろなことが言われていたが、おそらく昔から言われていることではないのかと想像していた

例えば、日本人は自国の哲学者の仕事をちゃんと評価しないで、いまだに海外の新しいと思われるものを追っている

そこから、自分の哲学を確立しようという気がないのではないかという疑問が生まれる

それと、一般的にだが息が短いという評価をしていた

勿論、西田幾多郎のような人もいるのだが、、

昨日の亀井勝一郎のエピソードとも繋がるようなものもあった

最初の作品を纏めるまでは恰もダムで堰き止めるように貯めることが重要だと考えているようであった

キャリアのために早くからいろいろなものを書こうとする傾向があるが、結局はためにならないというのである

内発的なテーマがないので、息の短さにも繋がっているのかもしれない

哲学などは、そもそも大学などでやるべきものではないのかもしれない















































2022年4月15日金曜日

函館散歩(2)、あるいは啄木のことなど





今日は出足から予定が狂ってしまった

函館2日目は一応の腹積もりがあったのだが、市電で乗り換えるべきところを乗り越してしまった

しかし、全く慌てない

その先には何か別の発見があるはずだと思っているからである

寧ろ、そういう時の方が面白い

まさに生物がそうであるように、誤謬は発明の母なのである


ということで、電車を降りると像が見えたのでそちらに歩みを進めた

高田屋嘉兵衛(1769-1827)の像であった

その先に坂道があるので登っていくと、突き当りに函館護国神社がドンと構えていた

その境内には第2次大戦中に全国から援農として参加した多くの若者の記念碑が建っていた

まさに国民総動員状態だったことが分かる









さらに同じ高さの道を進むと函館ハリストス正教会があったが、現在修復中とのことで完全に布に覆われていた

残念だが、年内は見られないようである

その横に函館聖ヨハネ教会があった






坂道を降りると、ドイツ風の建物が見えたので近づくと、その昔聞いたことがある懐かしい名前が現れた

カール・レイモン(1894-1987)さんのお店であった

記念にハムを買い、いつものように想定外となった今日の前半を振り返ることにした

































ここまでは、レイモンさんのお店でアップ









午後一番は市の文学館に寄ってみることにした

この町は石川一こと石川啄木(1886-1912)や亀井勝一郎(1907-1966)など、多くの文学者を輩出している

そのような文化的な土壌があったのだろう

2階は啄木の原稿や資料(森林太郎への手紙も数通展示されていた)などで独占されていた

その空間をこちらが独り占めすることになった

いろいろなものを目にしているうちに、少年あるいは青年時代に読んでいたことを思い出した

北海道のいろいろな町を放浪して過ごした寂しげな若者として、あるいは

晩年と言ってもまだ20代半ばであるが、その思想についても記憶に残っている

記念に歌集を手に入れた


また、啄木に「雲は天才である」という小説があることを初めて知った

なぜこのタイトルに目が行ったかというと、わたしのパリ生活は雲を見て過ごしたと言っても過言ではなく、そこから「空は芸術家である」と綴っていたからである

空は、雲が描く作品のキャンバスであるといった意味である

この小説はまだ読んでいないので、啄木がどういう意味を込めたのか知りたいものである


亀井勝一郎で印象に残ったのは、一枚の色紙であった

1964(昭和39)年に芸術院賞を貰った後の式典で、昭和天皇からこう言葉を掛けられたという
「たくさんの本を書いているようだが、どれが中心なの?」
この言葉を聞き、狼狽したというようなことが書いてあった


1階の展示を見て感じたのは、現世的なものの虚しさだろうか

生きている間にいろいろな栄光を得た人もいたようだが、今にして見れば振り返る人もいない

これまさに、マルクス・アウレリウス(121-180)の世界である


終わってみると1時間半ほどだったが、殆ど永遠に感じられた

これは至福と同義である

文学館の向かいにこの建物があった


























そこから市電で五稜郭に向かった

周りに何もないのかと思って行ったが、公園駅周辺は商業センターのようになっていて驚いた

そこから緩い坂道を下っていくと五稜郭タワーが目に入ってきた

まず全体を見渡すことにした

展望台に出て気づいたことは、高所恐怖症になっていることであった

窓の近くまで行けないのである

これには本当に驚いた



























展望台の展示で、高松凌雲(1837-1916)という医者を知った

下の写真にあるような考えを持ち、実践した人間がいたことを知ることができたのは幸いであった

































展望台は早々に切り上げ、五稜郭中央にある箱館奉行所の方に向かった





















































今回の滞在は、本当に久し振りに頭の中を空にして過ごすことができた

これまでは、抱えているものが何か常にあるので、完全には解放されていなかったのである

今の状態はフランスに渡った当初の内的世界に似ている

そのせいかどうか定かではないが、ブログの纏め方も当時のものに似ているように感じる













2022年4月14日木曜日

函館散歩、あるいは "I Remember Clifford"














春を迎えたせいか、一段落したという気持ちがあるためか、心だけでなく身の方もが軽くなったようだ

ということで、殆ど初めてになる函館に足を延ばすことにした

いつものように一瞬の決断であった


しかし残念ながら、曇りで寒風吹きすさぶ日和

その中を只管歩いてみた

坂道もあったので、日頃の運動不足が少しは解消されたのではないだろうか

しかし、これはという発見はなかった

明日に期待したいところである


ただ、駅で気付いたことは、駅員さんが親切だったこと

案内所の場所を改札の窓で聞いていると、それを見ていた他の駅員さんが寄ってきて、その場所まで案内してくれた

こういうことはあまり経験がない

それから、街中でも何人かに声を掛けてみたが、丁寧に時間を使ってくれていた

外は寒いが、内は暖かくなるというのはこういうことなのだろうか

良い印象が残った初日であった

















夜、満ち足りた気分で居酒屋に落ち着いていると、微かに "I Remember Clifford" が聞こえてくるではないか

それは学生時代に演奏した記憶を呼び覚ますものであった

何と形容したらよいのか分からない瞬間であった

至福の時間とでもいうべきなのだろうか





この曲を作ったベニー・ゴルソンクリフォード・ブラウンと作曲の思い出を語り、演奏しているビデオを見付けた

以下に貼り付けておきたい










2022年4月13日水曜日

ヒラリー・パットナムの「科学と哲学」を読んで
























今回ひょんなことから読んでみたパットナムだったが、表現と論理展開が「分かりやすい」ものであった

「易しく」書くという意味ではなく、明晰なのである

これは大陸哲学との違いの表れなのだろうか

それから、科学と哲学の捉え方はわたしのものとほとんど重なるという印象を持った

僭越だが、よい捉え方をしていると言えるだろう

もう少し読んでいきたいと思わせてくれる最初のエッセイであった








2022年4月12日火曜日

ヒラリー・パットナムの「科学と哲学」8
































「歴史のもう一つの見方」


ハイデッガーの『存在と時間』によってヨーロッパに広がった哲学の「危機」についての見方がある

それはハイデッガーのような元神学生にとっては自然なのだが、伝統的哲学を神と存在の神学(ontotheology)と見ていたことである

もう一つの「危機」の説明は、バートランド・ラッセル論理実証主義者の著作に見ることができる

それは、哲学が決着しない議論に導くことと、「新しい論理」によってその解決が可能になるので、伝統的な哲学は完全に置換されなければならないという認識であった


哲学における「進歩」は、問題を最終的に「決着すること」である必要はない

この問題は古い歴史を持っており、確かに中世では哲学はそのように要求されたが、単に神学を支えていたわけではなかった

一つだけ例を挙げれば、物理科学における観察できないものについての言説は真に「表象主義的」であるのかという問題がすでにバークリーヒュームの時代に見られたのである

量子力学をどのように解釈するのかという問題は、現代におけるスピンオフに過ぎない

哲学は決して存在神学ではなかったのである

これが哲学の「危機」とか「哲学の終焉」という考えが全くの間違いであることの理由である

そして、もし哲学の問題が常に我々とともにあるという意味で解決不能であるとするならば、それは残念なことではなく、寧ろ素晴らしいことなのである

(了)







2022年4月11日月曜日

ヒラリー・パットナムの「科学と哲学」7

























「科学的イメージと見えたままのイメージ」


我々が世界を理論化する際に「見かけを守る」必要性、すなわち、見えたままのイメージ(Manifest Image)を正当に評価することは、哲学が始まった時からの重要な願望であった

アリストテレスが形而上学は見かけを守らなければならないと主張したことは、プラトン的推論に対して普通の言語への敬意を示したものと見ることができるだろう

もし「普通の言語」が軽蔑されるものに過ぎないとすれば、我々が人間の言葉を記述するために用いるすべての語彙は軽蔑されるか、あるいは社会科学の「ニュースピーク」に置換されるのだろうか


トルストイジョージ・エリオットの小説にある人間の生活の描写は単なるエンターテインメントではなく、社会生活や個人生活で起こっていることを理解できるようにしてくれる

そして、そのような描写には普通の言語が我々に提供してくれる多くの微妙な違いが必要になる

「我々がどのように語るのか」の妥当性や非妥当性の問題は哲学者の問題だけではない

普通の言語が一度笑い飛ばされてしまうと、哲学的理論は我々の話し方、生き様に全く責任を持てなくなるという点で、これは哲学者の問題になる

しかし、これは哲学者を超える問題である

なぜなら、普通の言語に対する軽蔑は、根本のところですべての人類に対する軽蔑になるからである









2022年4月10日日曜日

ヒラリー・パットナムの「科学と哲学」6

























「科学と規範性」


科学と哲学の関係を見る場合の難しさは、日常生活に溢れる科学と哲学に関する間違った考えであるのは明らかである

その中には、科学をやるための「アルゴリズム」のようなものがあるという有力な考えも含まれている

しかし、この考えはわたしが知っている科学者が信じているものではない

何年か前、少なくとも50名のノーベル賞学者がいた聴衆に向かって、以下のように話したことがある
道理に叶っているという判断が暗黙のままであるとしても、そのような判断は科学的研究によって前提とされているとわたしは主張した

道理に叶っているという判断は客観的であり得ると主張した

そして、それらの判断は「価値判断」の典型的な性質をすべて持っていると主張した

つまり、「事実の知識は価値の知識を前提とする」と言ったわたしのプラグマティストの教師は正しかったと主張した

しかし、過去半世紀の科学の哲学史は大部分、この問題を避ける試みの歴史であった
明らかに、どんな空想であれ、実証主義の最後の?ドグマ――事実は客観的で価値は主観的であり、両者は決して交わらない――を考え直すことより望ましいと見られているのだ

その空想には、演繹の論理だけで科学を行うという空想(ポッパー) 、科学をアルゴリズムを単純に試すことに還元するという空想(カルナップ)などがある

科学者の誰一人としてわたしに異議を申し立てなかった


にもかかわらず、我々が「帰納の論理の神話」と呼ぶものに科学者自身が同意していないとしても、一般人や科学哲学者を含む哲学者の科学に対する考え方に強い影響を及ぼしていた

「事実」に対する信仰は価値に対する「態度」と根本的に違わなければならないとする考えは、価値は「認知されない」という考えの有力は擁護者であったチャールズ・スティーブンソンに支持されていた

彼は「情緒主義」(emotivism=価値判断は単なる情緒的な「説得」に過ぎないとする主義)の父で、価値判断は「帰納と演繹」によって検証できないとした(しかし「事実についての信仰」はできると考えたのだろう)

従って、「帰納」の問題という認識論における技術的な問題として始まったものは、価値の問題を理性的に議論できる可能性に決定的な役割を果たしたのである


事実と価値が深く絡み合っているという考えの事例は、過去100年の最良の哲学研究のいくつかに依拠している

わたしは何年もの間、科学、特に社会科学においては、事実と理論と価値の絡み合いを扱わないわけにはいかないということを主張してきた

それは三本脚の椅子のようなもので、全ての脚が揃っていなければ倒れるのである

もし何かが「価値判断」であれば、それは完全に「主観的」であるはずだという余りにも一般的な考えは、危うい基盤の上にあるだけではなく、完全に崩れ去った基盤の上に立っているのである

このことを理解することは、「価値についての理性的な議論」の可能性と重要性に対する信頼を取り戻す時に決定的になるとわたしは考えている