2022年12月17日土曜日

コリングウッドによる自然(65): 現代の自然観(7)ベルクソン(4)



















ベルクソン(1859-1941)の生気論に関わるこのような不均衡と矛盾の感覚があるので、我々は彼の基本的な概念を詳しく調べなければならない

自然の有機体と自然の法則の両方を創造する働きをし、直観的に知識を求めると同時に知的に行動する精神を有機体に付与する生命力は、その外にもそれ以前にも何もない力である

しかしそれは、いろいろなやり方でそれ自身を分化させ組織化する

異なる方向に分枝、発展し、この方向では成功し、別の方法では失敗する

ここでは停滞に陥り、あそこでは中断されない勢いで流れていくと言った具合である

つまり、この活動の詳細な記述を通して、彼はこの活動を恰も岩や山の間を流れる川として捉え、岩や山は川の運動自体を決定しないが、分枝や多様化は決定していると考えていた

これは、閉塞や分枝の原因は生命力そのものに内在するのか、この原因は生命ではない何かなのかのどちらかを意味している

最初の選択肢は、ベルクソンの純粋な活動としての生命という概念によって除外される

それゆえ、第二の選択肢のそれ自身で実在する何か、生命の流れの障害としての原因を考えなければならなくなる

ここで再び、生命が役割を演じる舞台としての物質という観念に戻ってくる

これはベルクソンの宇宙論の悪循環である

彼は表面上、生命の副産物として物質を見做していたが、物質を前提とすることなくどのようにして副産物が現れるのか説明できなかったのである


この結論は、ベルクソンの認識論にとって致命的である

宇宙論として見たベルクソン哲学の問題は、彼が生命を真剣に考えたことではなく、それ以外を真剣に考えなかったことである

生命という概念は、世界の一般的な性質にとって最も重要なカギになる一つであるが、全体としての世界の十分な定義にはならない

物理学者の無生物の世界は、ベルクソンの形而上学にとって重荷である

それに対して、彼の生命プロセスの中で消化する以外に彼にできることは何もないからである

そして、それは消化し得ないものであることが明らかになったのである

しかし、彼が生命に注意を集中することにより成し遂げた自然理論の進展は否定できない

我々はベルクソンの仕事を無視することはできない

我々がやるべきことは、彼が解決できなかった生命のない物質という概念について再考することである







2022年12月16日金曜日

コリングウッドによる自然(64): 現代の自然観(6)ベルクソン(3)
































ベルクソン(1859-1941)の自然理論の長所は、彼が生命の構想に真剣だということである

彼はその概念をしっかりと把握し、それを印象的で見事なやり方で定義しただけではなく、それ自身の範囲において最終的なものとしたことである

しかし、彼の哲学を全体として見、彼がどのようにして生命の概念を自然の概念と同一視し、自然の中のすべてを「生命」という一つの言葉に還元しようとしたのかを想像する時、17世紀、18世紀の唯物論者たちが物質についてやったことを彼は生命についてやったことが分かる

唯物論者は物理学を出発点として、物理学者が理解する言葉の意味において、自然はいずれにせよ物質的なものであると言い張った

そして、自然の全世界を物質の言葉に還元するところに進んだのである

ベルクソンは生物学を出発点として、自然の全世界を生命の言葉に還元することにより議論を終えるのである

我々はこの還元を唯物論が試みた還元よりも成功しているのかどうかを問わなければならない

ここで2つの問題が現れる

1つは、精神が物質の概念に吸収されることに抗したように、生命の概念に吸収されることに執拗に抵抗するものがあるか

そして2つ目は、生命という概念が足場を失ってもそれ自身で宇宙的原理として有効であるかという問いである

第一の問いは、ベルクソン流の生気論が古い唯物論よりも自信をもって対応できるものである

物質と精神の溝を橋渡しする生命という概念は、両者を説明すると尤もらしく主張できるだろう

従って、この問題に長居はしない

第二の問題はより深刻である

我々が知る生命は、物質により既に設定された舞台の上でその役を演じている

我々が見るところ、それは無数の無機物の中の一つの表面で一時的に開花したものである

天文学や物理学の無機的世界は、有機的世界とは比較にならないほどの時間と空間を伴うシステムである

生命がこの無機的世界に現れているという事実は、疑いなく無機的世界の重要性に光を投げかけている

ベルクソンの雄弁から我々の精神を救い出し、彼が言うように物質は生命の副産物なのか、あるいは唯物論者が信じるように生命は物質の副産物なのかを頭を冷やして自問する時、彼が擁護している立場はとんでもなく耐えがたい矛盾であることを認めないわけにはいかない

自然は我々の精神の思考の副産物であるとするカント(1724-1804)の理論を、その反対が真理に近いと確信しているため、真剣には受け入れられないとすれば、どうしてベルクソンの同様の理論、すなわち物理学の世界は生命の自己創造的世界の副産物であるということを受け入れることができるだろうか

これは新しい形の主観的観念論で、ヒューム(1711-1776)がバークリー(1685-1753)の理論について言ったこと、すなわち、その議論は回答の余地はないかもしれないが、確信を齎すものでもないと言わなければならない












2022年12月15日木曜日

コリングウッドによる自然(63): 現代の自然観(5)ベルクソン(2)





これら3つの二元論はそれぞれが万華鏡のようにベルクソン(1859-1941)の哲学になるが、我々の議論のために重要になるのは、物質と生命という宇宙論的二元論である

すでに見たように、生命とはまず何よりも人間の精神を生み出す力であり過程である

それに対する物質とは、それを操作するために精神が現実を考える1つのやり方であるが、この現実は生命そのものである

生命と物質はいかなる意味においても対峙するものなので、生命は物質ではあり得ない

つまり、物質は行動のために有用で必要な知性の産物であり、真なるものではない

従って、物質はベルクソンの宇宙論からは排除され、生命の過程とその産物だけから成る世界が残されたのである

この過程が「創造的進化」とされるものである

作用因なるものは、物質の架空の世界に属するとされて、この過程から追放される

作用因に従って動くものは、単に引っ張られたり押されたりしているだけだが、生命はそこに内在する「エラン・ヴィタル」に従い、それ自身で動くのである

同時に目的因も追放される

なぜなら、目的因の場合、終わりが前もって決められており、その過程の創造性や自発性が否定されるからである

ベルクソンは目的論を逆さまになったメカニズムだと言った

世界の過程は、壮大な即興演奏である

生命の力は、いかなる目的もゴールもその外の導きの光も内なる導きの原理もない

それは、内在する性質が流れることであり、どんな方向にもいつまでも推し進める単なる力である

物質的なものはこの宇宙的な運動の前提ではなく、その産物である

自然の法則はその過程を導く法則ではなく、一時的に採用する輪郭に過ぎない

延長から成る感覚器により感受可能な(perceptible)世界と、その振舞を支配している変わることのない理解可能(intelligible)な法則という古い区別

つまり、古代ギリシアの感受可能な世界と精神による理解が可能な世界との区別が、両者とも進化という過程に組み込まれることにより否定されたのである

進化の過程は、変化するものと、その変化のやはり変化する法則を一度に生み出すのである






2022年12月14日水曜日

コリングウッドによる自然(62): 現代の自然観(4)ベルクソン(1)

































進化の観念が本質的に生物学的なものとして考え出された思考のフェーズは、ベルクソン(1859-1941)の仕事の到達点と見てもよいかもしれない

わたしはここで仕事全体を検討しようとしているのではなく、彼の哲学の生物学的要素の主要な輪郭と他の要素との関連を指摘するだけである

ベルクソンの生命についての思想は、物理学者が理解する物質との相違をしっかり把握することから始まる

物理学者の世界では、起こるすべてのことは既に存在している原因の結果にしか過ぎない

物質とエネルギーは不変なもので、すべての運動はすでに決定され、理論的に計算可能である

すなわち、真に新しいものは存在し得ない

全ての未来の出来事は過去の出来事の中にある

ベルクソンの言葉で言えば « Tout est donné »(すべては与えられている)で、未来の扉は閉じられているのである


反対に生命においては、未来の扉は開け放たれ、変化の過程は創造的で、真に新しいものが現れる

ここに一見すると、「物質」と「生命」という自然における二元論がある

二元論にどう対処するのか

ベルクソンは、それに対して認識論でアプローチする

そこでも彼は「知性」と「直観」という二元論を見出す

知性とは、理性を働かせ、立証し、厳密な概念と共に働き、物質を思い描くための適切な道具である

また直観とは、対象の生命の中に入り込み、運動の中に生命を追跡し、流動的で自己創造的な生命の世界を認識するための適切な道具である

物質と生命に次ぐ、知性と直観という第二の二元論だが、ベルクソンは次のように主張して解決しようとする

人間の精神は自然の進化の産物なので、真理を知るために我々に精神的な能力を自然が与えたと想定する必要がない

実際、知性とは真理を知るための能力などではなく、実践的な能力、自然の流れの中で我々を効果的に行動させる能力、丁度肉屋が動物の肉をさばいたり、建具屋が木材を処理したりするようなものである

ここでベルクソンは、「知識」と「行動」という第三の二元論に頼るのである

すなわち、本質的に直観的なものとされ、生きた対象に自らを浸している意識の働きである「知識」と、操作的なものとされ、対象から離れ、見下ろしている意識の働きである「行動」という二元論である








2022年12月13日火曜日

コリングウッドによる自然(61): 現代の自然観(3)生命という概念(3)

































物質とも精神とも違うものとしての生命という概念が確立されるまでに抵抗がなかったわけではない

それは当然のことだが、デカルト(1596-1650)の実体二元論の遺産から来ている

生命は伝統的に物質の領域に組み込まれているので、生物学的事実を物理学の概念で説明しようという衝動に駆られる

この敵の牙城は、以下のような理論であった

特異的な形の変異は、受精卵において父親と母親の細胞が混ぜ合わせられるという全くの偶然により、あるものはその環境で生きることができるが、他のものはそうはいかないという具合に、いろいろな種類の子孫を生み出す

この理論に基づき、唯物論的遺伝学の立派な構造が生まれたのである

わたしが唯物論的というのは、それが生理的機能をすべて物理化学的構造として説明しようとしているからである

未だ活発なその論争に、今は入ることはできない

なぜなら、この論争は生物学の領域に属するもので、わたしが論じている哲学的問題に影響を及ぼすのは、その論争から離れた含意だけだからである

哲学に基づけば、機械的あるいは化学的とは異なるものとしての生命の過程という概念は定着するところまで来ており、我々の自然の概念に大変革を齎したと言うのは、正当であるとわたしは考えている

多くの著名な生物学者が未だそれを受容していないということは、驚くに当たらない

同様に、16世紀宇宙論の新しい豊穣の要素としてわたしが記載した反アリストテレス物理学は、同時代の著名な科学者により拒絶された

役に立たない衒学者だけではなく、知の向上に重要な寄与をしたような人たちにも受け入れられなかったのである









2022年12月12日月曜日

コリングウッドによる自然(60): 現代の自然観(2)生命という概念(2)
































これらの思索は、全く新しい生成過程の概念に導いた

それまで自然は固定された生命の形を再現するとされていたのに対し、これからは常に新しく改良された形を産生しようとするものと見做されたのである

それは人間の養牛業者のようなものだが、彼らにとっての改良された形とは彼らの目的に沿うもので、牛の利益にかなうとは限らない

つまり、養牛業者の目的が牛に押し付けられるのである

自然が生命の形を改良する場合、自然はその内側から作用する

従って、自然が改良された生命の形を再現するという意味は、生きること、生存に適している形のことである

生命の歴史とは、自然が生命をより効果的に生きるようにする実験の終わりなき繰り返しと考えられる

このような生命の概念は、すでに浸透していた物質と精神の概念と区別することが非常に難しかった

新しい生物学は生命を物質と似ているもの、意識的な目的を完全に欠いたという意味で精神とは似ていないものとして考えた

ダーウィン1809-1882)は選択という言葉や有機的な自然における目的論を含意する言葉を使うことに躊躇しなかったが、自然を意図的に実験したり目的を意識するものとしては一度も考えなかった

彼の生物学の底にある哲学を考え出そうとしたならば、ショーペンハウアー(1788-1860)の意識や道徳的属性を全く欠いた、創造的で指導的な力である盲目の意志の自己表現としての進化というような概念に至っただろう

そのような考えは、ダーウィンの同時代人――例えば、テニスン(1809-1892)――の空気の中に漂っていた

他方、生命は歴史的過程の中で発展し、ランダムではなく一つの決められた方向に向かうという意味で、物質ではなく精神のようなものであるとも考えられた

もし環境が変化したとする

例えば、魚がいる海が徐々に蒸発していく場合、魚はまず泥の中で、そして乾燥した陸地で生息できるように代々適応する術を見つけるだろう

それが安定して来れば、より適応できないものを圧倒していくだろう

この理論は、内在的であり超越的でもある生命力という哲学的概念を含意している

内在的という意味は、これらの有機体の中に具現化されたものとしてだけ存在するからである

そして超越的という意味は、その個体とそれが属する型の生存や永続を実現しようとしているだけではなく、新しい型の中により適した実現を常に試み、それが可能であるからである







2022年12月11日日曜日

穐吉敏子さんとの何度目かの遭遇

























昨日の朝、ピアニストの穐吉敏子さんがテレビのニュースで取り上げられていた

これまでと同様、偶然の出来事であった

1929年12月12日のお生まれなので、明日で93歳ということになる

右目だったと思うが、白内障を患われ失明したとのことだが、今でも演奏活動を続けられている

また、手を手術されていたことも今回初めて知った

同じことを毎日繰り返すという単調なことを続けているうちに、気が付くとこの年になっていたという感じだという

この感覚はわたしの中にあるものと近い

そして、毎日やることがあるのは幸せなのかもしれないとも話していた


幸福については、前回のベルクソンカフェ/カフェフィロPAWLでも取り上げたが、考え出すとなかなか手ごわい問題である

それが何を指しているのか分からないことが殆どだからだ

ということで、次回のカフェ(2023年3月1日)でもその続きをやることにした

興味をお持ちの方の参加をお待ちしております


穐吉さんのことは以前にも取り上げているので、以下に貼り付けておきたい

  Be kind to yourself(2016年4月3日)これはよく読まれた記事にリストアップされている 




穐吉さんのお考えを改めて読み直したところだが、参考になるところが少なくない












2022年12月10日土曜日

コリングウッドによる自然(59): 現代の自然観(1)生命という概念(1)
































今回から、いよいよ現代の自然観に入る

最初のテーマは生命という概念で、まず進化生物学が論じられる

気分も新たに早速始めたい



ヘーゲル1770-1831)の時代から進化という概念は二つのフェーズを通り過ぎた

一つは生物学的フェーズで、二つ目が宇宙論的フェーズである

生物学的フェーズは、自然の一般理論との関連で極めて重要である

なぜなら、デカルト1596-1650)の物質と精神の二元論をその間に生命という第三項を入れることにより最終的に解体したのがこの思想の運動だったからである

19世紀の科学研究は、物質の科学である物理学と精神の科学から独立した生物学研究の自律性を確立することに向けられた

古代や中世の宇宙論では、物質、生命、精神は融合しており、識別するのが難しかった

延長としての世界は物質的なものと見做され、動くものは生きているものとして、秩序だったものは知的なものとして見られた

16世紀と17世紀の思想は魂を世界から追い出し、死んでいる物質の秩序だった運動を考えることにより近代物理学を作り出した

そこには生きたものの運動との対比が暗黙の了解としてはあったのだが、近代の生物学はまだ生まれておらず、デカルトも動物を自動機械として考えようとしていた

ヘーゲルでさえ、自身の宇宙論を自然の理論と精神の理論に分け、生物学はまだ独自の領域にはなっていなかったのである


19世紀の生物学が勃興する前、生物における生成の過程は、親の特徴的な形が子供に再現されることであると考えられていた

それが正確に行われなかった時には逸脱や失敗と見做されたのである

当時、生物は安定しており、異常が出現しても生き延びられないか、子供を作ることができないと思われていた

しかし、18世紀の古生物学者の研究によれば、この見方は最早有効ではないことが示されていた

実際に地質学の研究が、昔の動物相、植物相と今のものが大きく異なっていることを明らかにすることになる

つまり、歴史が流れると、生物の形は変化すると考えざるを得なくなる

人類の歴史を顧みても、政治的、社会的組織は同様の進化を経ていることが分かる

この仮説は、主にダーウィン(1809-1882)による家畜の交配研究により実証された











2022年12月9日金曜日

コリングウッドによる自然(58): ヘーゲル(13)

































ここで再び、ヘーゲル1770-1831)の自然哲学(Naturphilosophie)の不完全さ、すなわち論理的基盤における解消されていない矛盾を見る

彼は何をやっていたのか

自然科学者が実際にやり、信じていたことを哲学的に説明しようとしていたのか

つまり、彼の自然哲学は自然科学者が知っていることをどのように知ることになったのかという問いに答える試みなのか

あるいは、自然科学者がすでに成し遂げた結果の後ろに回り、伝統的な自然科学の方法ではなく、彼自身の哲学的方法で異なる結果を得ようとしていたのか

彼はこの両方をやったことで非難された

その都度、他のことをやるべきだったという理由で

確かに、彼は両方をやっていた

まず、同時代の自然科学を暫定的に受け入れることにより始めたのだが、その状態に満足できず、彼が考えるあるべき科学の姿に改良しようとした

そのことで彼は正当とは言えない厳しい批判に晒されたのである

それは科学が出したものを「科学的」すなわち侵すべからざるものとして放っておけばよいところを、それらを受け入れず批判したためであった



ヘーゲルは、同時代の科学と彼自身の方法で得た結果との統合、機械としての自然と過程が浸透している自然という概念の統合を何とか齎そうとしていた

統合が必要だと彼が考えたことは間違っていなかった

ただ、彼が辿り着いた統合が正しかったと言っているのではない

わたしが言っているのは、彼は急いでおり、自然科学は都合の良い時に自分のやり方で解決しなければならないということを見ず、自然科学の問題を哲学で解決しようとしたということである

彼は、科学の将来の発展でしかないようなことも哲学で先取りしようとした

そして、彼の予想は多くの点で驚く程正確であったことが分かる

しかし、科学的思考には先取りの場所はない

科学的思考は科学が成し遂げた結果を尊重するだけなのである


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これでヘーゲルのセクションを終えたことになる

なぜか分からないが、非常に長く感じた

と同時に、科学と哲学との関係に悩み、奮闘していた姿も垣間見ることができた

その意味では、これまで殆ど関係ないと思っていた一人の哲学者が、近くに寄ってきたように感じられる

それはカント1724-1804)についても言えるだろう

これから先は、よりは身近な現代的テーマが現れることを期待したい








2022年12月8日木曜日

コリングウッドによる自然(57): ヘーゲル(12)





ある点では、蕾から葉への過程と自然から精神への過程の対応関係は不完全である

蕾から葉への過程は自然の中で起こるので、時間の中でのことである

それに対して自然から精神への移行は自然の中でのことではないので、時間の外にあり、イデアの世界のもの、あるいは論理的なものである

ヘーゲル1770-1831)によれば、全ての自然が精神に変わってしまえば、時間はなくなる

逆に、自然が精神に変わることがなかった時はなかったのである

精神は常に自然から成長するし、これまでもしてきた


ヘーゲルの宇宙論が今日出回っている多くのものと明確に異なっているところに我々は導かれる

それは時間の意味に関係することである

現代の宇宙論は一般的に進化の概念に基づいている

一つの種の発展は時間の中での発展として見るだけではなく、自然からの精神の発展も時間の中での発展として見るのである

この種の見方はヘーゲルの時代にも徹底的に議論されていたが、彼はそれについて考えた末にそれを捨てたのである

全ての実在は層構造をしていると、ヘーゲルは言う

それは、低い感覚の層と高い知性の層がある精神についても、無機的で生命のない層と有機的で生きている層がある自然についても当て嵌まる

自然においては、生きているものと死んでいるものが相互に浸透することなく、それぞれの外に別物として存在しなければならない

自然においては、時間的な移行はなく、論理的な移行だけが存在する

それでは、なぜヘーゲルはこの立場を採ったのだろうか

それは、彼の時代の物理学によって考えられている純粋に死んでいる機械的な物質の世界は、物質を空間の中で再配置することしかできないのだが、それをやっても生命を生み出すことはできないと考えたからである

死せるものとは質的に異なる生きるものの中で作動している新しい組織化の原理がある筈である

物理学者が死せるものの概念に満足している限り、進化の理論を受け入れることができないのである















2022年12月7日水曜日

コリングウッドによる自然(56): ヘーゲル(11)


































自然=精神だからといって、我々が自然を考える時に精神を思い描く必要はない

あるいは、自然は精神が存在しなければ存在できないようなものでもない

ただ、自然は真の過程の一つの相であり、それが精神の存在に導くということである

ヘーゲル1770-1831)にとっての自然は、バークリー1685-1753)やカント1724-1804)にとってと同様、一つの抽象であるが、それは真の抽象であり、精神による抽象ではない

真の抽象とわたしが言うのは、実在する過程の実在する一つの相のことで、それが導く次なる相のことではない

従って、葉芽の成長は実際に起こっている過程で、葉が完全に形成される前に起こることである

蕾と葉が別々にあることは精神が作り上げたフィクションではない

蕾は葉とは異なる特徴を持っているが、葉になるようにしており、それが蕾の本質である

つまり、蕾と葉は一つの過程の異なる相を形成している

自然による抽象は、連続する相を通して行われているのである

ヘーゲルにとって全体としての自然が精神を含意しているということは、丁度蕾が葉を含意していると言うのと同じである

自然はまずそれ自身でなければならない

従って、自然の概念は真であり、錯覚ではない

しかし、暫定的にそれ自身であるのであって、自然はそれ自身であることを止め、精神になる

丁度、蕾がそれ自身であることを止め、葉になるように

蕾の全過程における暫定的な性質は、論理的には自己矛盾になる

そう在ることと成ることとの間の矛盾である

この矛盾は植物学者の誤りではなく、実在に内在する特徴なのである










2022年12月6日火曜日

コリングウッドによる自然(55): ヘーゲル(10)






























ヘーゲル1770-1831)は、空虚な空間と時間を自然における基本的なものとするという点で、カント1724-1804)とニュートン1642-1727)、デカルト1596-1650)とガリレオ1564-1642)に続いた

ヘーゲルは、自然に浸透する運動を、プラトン427 BC-347 BC)やアリストテレス384 BC-322 BC)のやり方で、さらに基本的な何か――それは論理的な過程なのだが――を時間と空間に翻訳することであると理解した

しかし彼は、このように時空に広がる自然というものを真剣に捉えるとすれば、いかなる自然の事物や過程も時間と空間の中には居場所がないという結論に至ることも見ていた

従って、空間に存在し、時間の中で起こるという考え自体が自己矛盾する考えになるのである

この状況においてヘーゲルがすべきことは何なのか

ある哲学者は、自己矛盾するものを見つけた時には、それは見かけであり実体ではないと言い張る

しかし、ヘーゲルには逃避の方法がない

なぜなら、彼は知の理論において超実在論者であり、現れたものは何でも実体であると考えるのである

自然が確かに我々に現れる

我々の感覚に現れるように見えるが、カントが示したように、それは我々の感覚ではなく我々の想像の中に現れ、科学者の思考に理解可能な形で現れる

従って、それは実在するのである

しかしヘーゲルによれば、その中にある矛盾が、それは完璧ではないことを証明している

それは何か他のものに変化することに関わっている何かなのである

自然が向かう他のものとは、精神である

従って、ヘーゲルにとっての自然とは精神であると言えるだろう








2022年12月5日月曜日

コリングウッドによる自然(54): ヘーゲル(9)




























予想よりも早くゲラが届いた

今週はその校正に使われることになる

当初のように、横書きが縦書きになっていることに新鮮な驚きを感じることもなくなっている

先日、参考文献について触れたが、本文中の数字はわたしの目には見えない大きさなので、気にすることなく読み進むことができるのではないだろうか

さて、本日もコリングウッド(1889-1943)によるヘーゲル(1770-1831)である



ヘーゲルは古代ギリシアを崇拝し、その芸術、文学、思想を熱心に研究したドイツ人世代に属している

ヘーゲルの自然哲学の有機体論や反機械論は、古代ギリシアの思想から拝借することにより18世紀の未解決問題が解決された哲学であると安易に記述されるかもしれない

わたしが安易にと言うのは、このような記述方法が影響とか借用について語られる表面的な歴史の特徴的なものだからである

このような安易なフォルミュールに満足しない思想史家は、ヘーゲルが18世紀の思想の隙間をプラトン(427 BC-347 BC)やアリストテレス(384 BC-322 BC)のパテで埋めたとは見ないだろう

寧ろ、自身の自発的な発展により、18世紀の思想が十分に成熟したため、プラトンやアリストテレスを理解できるようになり、その結果、自身の問題を彼らが議論していた問題と結び付ける地点にヘーゲルを見るだろう

しかし、ギリシアの観念との接触があったため、ヘーゲルは自分の世代の実践生活との接触を失ったのである

ヘーゲルは革命的であった

彼の自然観は、意識的に科学研究の正しいやり方についての革命的結論に至った

彼はガリレオ(1564-1642)から直接アインシュタイン(1879-1955)に行きたがったのである

しかし彼は、ニュートンにとって良いことは将来のすべての世代に良いと主張する反革命の世代に生きていた

ヘーゲルと彼の同時代人との論争は、彼の思想における不一致から生じたものであった












2022年12月4日日曜日

コリングウッドによる自然(53): ヘーゲル(8)



































ヘーゲル(1770-1831)によれば、自然の観念はこのように分散し、時空間に分布する二重にばらばらにされた実体の観念である

この特徴は全体としての自然の観念だけではなく、自然の中のいかなるものの観念にも影響を与える

物質的な物体の観念は、空間に分布する多くの粒子の観念であり、生命の観念は時間の中に分布する多くの特徴の観念である

そのため、物体の観念が局所的にでも実現されたり、生命のすべての特徴が現実となる時はない

物体がここにあるとか、今この瞬間わたしは生きていると言うことができないのである

たとえ「ここ」を一立方フィートとし、「今」を80年だとしても、物体の存在がその領域に含まれ、80年の中にその有機体が存在しているとは言えない

このように考えると、ホワイトヘッド(1861-1947)が再発見し、我々の時代に広めた概念に辿り着く

それは、世界に存在するそれぞれの物質は、ここやあそこに局在しているのではなく、どこにでも存在するということである

この概念は現代物理学にとって驚くべきことではなく、現代の宇宙論についての注目すべき事実なのである

それは現代の物理科学が物質とエネルギーについての見方に辿り着いたもので、自然に関するヘーゲルの理論が意味するところと合致している

ホワイトヘッドのような哲学者であり科学者が、ヘーゲルの理論をそうとは知らずに(なぜなら彼がヘーゲルを読んだようには見えないないからである)復唱したのである

しかし、ホワイトヘッドに可能であったことはヘーゲルには不可能であった

なぜなら、ヘーゲルの時代の物理学はニュートン(1642-1727)とガリレオ(1564-1642)のもので、空間にものが「ただ置かれている」(ホワイトヘッドによれば)と見做す物理学だったからである

従って、ヘーゲルの自然に関する理論は二元論によって引き裂かれ、結局はばらばらにされる

一方に、17世紀から受け継いだ自然は機械だとする前提がある

そして他方には、自然は単なる機械ではあり得ず、全ての実体には過程と活動が浸透していなければならないという彼自身の思想の宇宙論的な含意がある

なぜなら、自然にはそれ自身から論理的な必然性により、生命と精神を進化させる力が具わっているからである











2022年12月3日土曜日

Youtube Music からのまとめ
































師走である

今まで受け取ったことはなかったが、Youtube Music から1年のハイライトが届いた

それによれば、よく聴いたアーティストのベストスリーは以下のようになっていた





バッハは分かるが、それ以外は意外であった

因みに、最も再生されたトラックは、ラファウ・ブレハッチの「パルティータ 第3番イ短調 BWV 827: Gigue」であった

おそらく、携帯で流しっぱなしにしていたものの中に多かったということなのだろう

改めて聴いてみることにしたい














2022年12月2日金曜日

ゲオルク・ジンメルの言葉



















今日は、ゲオルク・ジンメル(1858-1918)の言葉から


高い精神的な関心に生きることは、老人になった時の耐えがたい退屈と生活の倦怠とに対して私たちを守り得る唯一のものである。何によらず、低いもの、日常的なもの、感覚的なものは、何十年も繰り返していると、甚だ索漠たるものになってしまうからである。真に精神から生れ、精神に生きることは、その直接の質的な価値を全く離れても、変転及び無尽という価値を持っている。精神的な事柄に素質のある高い人間でも、永い年月を低い領域に過ごすことがある――しかし、やがて、その単調に気づき、外面的なものや感覚的なものの根本にある驚くべき変化の乏しさに気づく。それを知ると、彼は絶望に陥らずにいられないが、永らえて、なお絶望を防いでくれるのは、真に精神的な人間の内部の測るべからざる内容と自ら生じ来る不断の変遷とだけである。

(清水幾太郎訳)






2022年12月1日木曜日

コリングウッドによる自然(52): ヘーゲル(7)



























ヘーゲル(1770-1831)が自然の過程を指示する概念や形相をどう考えるのかは、プラトン(427 BC-347 BC)があらゆる形相を考えたやり方と平行している

例えば、プラトンは理想的な国家の概念は、いかなる現実の国家でも実現されないとしている

なぜなら、人間の精神はその概念を完璧に実現することができないからである

形相が人間精神にはできないことを課しているのである

しかし、ヘーゲルはなぜ、自然の形相がこのような奇妙な特徴を持つと考えなければならなかったのだろうか

答えるためには、我々は形相と観念、形相と精神を分けている特異性を問わなければならない

ヘーゲルの回答は、自然は本質的に外部の実在、外的世界だというものである

ここで言う外部とは、我々にとっての外部ではない

自然は我々にとって外部にあるものではない

我々の体の外にあるものではない

逆に、我々の体は自然の部分なのである

また自然は、我々の精神の外にあるものでもない

なぜなら、両者が空間に位置するのでなければ、一方が他方の外に位置することはあり得ないからである

体ではない我々の精神は空間には存在しない

自然を外的世界と呼ぶことが意味することは、それが外部性に特徴付けられた世界、すべてが他のすべての外に在る世界だということである

つまり、自然はものがそれぞれの外に在る世界である

これには2つの形がある

1つは、すべてのものが他のすべてのものの外に在る、すなわち空間

もう1つは、一つのものがそれ自身の外に在る、すなわち時間

一つのものが時間の中でそれ自身の外に在るというのは、その概念を実現するのが時間の中に広がっているということである

例えば、拡張し収縮するのが心臓の性質である

この2つの過程は論理ではなく自然の過程なので、一方からもう一つの相に移行するのは時間の中である

それぞれを虫食い状に行うのである









2022年11月30日水曜日

11月を振り返って

























通り過ぎてヘーゲルに行くところだったが、今日は振り返りの日であった

今月は次のようなことをやっていた


1)免疫に関する本の最終校正を終えた

この本はここ10年超の思索の跡を纏めたもので、わたしにとっても発見の多い内容となっている

研究者だけではなく、一般の方にも届くことを願っている

いつも感じることだが、一つの文章ができる奥には多くの仕事が眠っている

今回、それを示すためにかなりの資料(論文や著作)を巻末に添えることにした

そのため一見すると研究書のように見えるかもしれないが、必要を感じなければこれらの資料は放っておいていただいて構わない

ということで、今回の校正では資料の整理が大変であったが、何とか終えることができた


それから、この過程でもう一つ気付いたことがある

最初に資料に当たり一つひとつの部分を書くのだが、その時には全体が見えないため、どこまでをどのように記述すればよいのか分からないことがあった

しかし、全体を見渡すことができる校正の段階になると、その中でなぜか出来上がっている流れや知識のレベルに沿うような書き方が見えてくる

今回の校正も4サイクルほどやったが、繰り返しているうちに異質に感じた部分が全体に溶けこむようになる

そして、これ以上にはならないと思われるところが見えてくる

そこが校正の終わりである

あくまでも現段階においては、ということだが


この段階で大きな書き直しはしないということは、今年ゲーテから教わったことである

この原則があったので、さらに考えを広げたりしようとせず、今あるものをより明確にすることに迷わず集中することができた

大きな書き直しは、これから先の仕事になると考えればよいのである

ということで、今はゲラが届くまでの待ち時間になっている



2)今月もコリングウッドを読んでいた

偶然から始めたコリングウッドではあるが、これまで触れることのなかった世界に誘ってもらっているという感じがしている

自分では読むことがなかっただろう人たちの考えが紹介されているので、これからの参考になる

ぼんやりとではあるが、世界が広がってきたように感じている

著者の思考の流れを追うように一文一文丁寧に読んできたことも、認識を広げる上で重要だったのではないだろうか

哲学的思考が行われている現場に立ち会っているような感覚もあった

流し読みではこうはならなかったであろう

この作業、もう少し続くことになる



3)久し振りに科学の会に参加した

パスツールの生誕200年を記念したシンポジウムに参加し、久し振りに科学者のお話に触れた

科学の世界の特徴が益々顕著になってきた

当然のことなのだろうが、科学者が哲学的な思考に入る余裕はなさそうだ

今のわたしには、科学の話がどうしても物足りないものにしか感じられなくなっている

やはり科学の先の話――科学の形而上学化と言ってもよい――が必要になるという感覚だろうか

その後、退職した科学者と旧交を温める機会があったが、そこに出てくる話はわたしにもよく通じるものであった

やはり、現在定義されている科学から距離をとれるようにならなければ哲学には向かわないのかもしれない

それとは別に、次第に深くなるわたしの底における日常から浮かび上がることの大切さを、先月に続き再確認する機会となった











2022年11月29日火曜日

コリングウッドによる自然(51): ヘーゲル(6)

































自然の中に在るすべては、何か定まったものになろうとしている

しかし、その目的への収斂は常に漸近的で、決して一致点には到達しない

そのため、自然の法則は現代の科学者によれば統計的な法則と呼ばれる

個々の行動を正確に記述するのではなく、彼らの行動の全体的傾向を記述するのである

その意味では、自然は real ではなく、自然の中のものはどれも科学が記述するものとは完全には一致しない

それは我々の記述が訂正を必要としているからではなく、自然には不確定性の要素、アリストテレス(384 BC-322 BC)の言葉を使えば、まだ完全な現実態になっていない可能態の要素があるからである


自然における不確実性の要素の理由は何なのか

ヘーゲル(1770-1831)の回答は非常に目新しい

古代ギリシア人は、それを物質のせいにした

形相は完璧なのに物質の中に完全には体現されないのは、物質が言うことを聞かないからだとした

しかしこれは回答ではなく、形相が物質に体現されていないことを言っているに過ぎない

ヘーゲルの回答は、自然の形相が体現されないのは、形相自体に問題があるからだというもの

形相の問題とは、体現されないようにさせるものが存在していることで、そのため本来的に形相は完全には体現されない

その形相はユートピアのものである

抽象的で、本質的に非物質なのに物質に再現されるように要求されているのである







2022年11月28日月曜日

コリングウッドによる自然(50): ヘーゲル(5)




















ヘーゲル(1770-1831)にとって、自然は実在するもので、錯覚やそこにあると我々が思うので存在している単なる見かけでもない

それは真に存在しており、精神から独立して存在している

真に存在する、実在するという言葉(real)は曖昧である

字義通りに言えば、それは物体(res)の特徴を持っている

もし物が時空に存在するもののことを言うのであれば、自然は実在するだけではなく、唯一の実在である

なぜなら、それはまさしく物の全体であり、事物性の王国であるからだ

日常語における real にはもう一つの意味がある

それは本物か模造品かという場合の本物に当たる

模造品の場合、それは実在する物(realitas)ではあるが、真なるもの(veritas)ではない

それが本来あると言っているところのものがないのである


プラトン(427 BC-347 BC)やアリストテレス(384 BC-322 BC)によれば、全ての自然物は本質的に生成の過程にある

自身の形相にあるものを身に付けようとするが成功しない

第2の意味から言えば、全ての自然にある物は real ではないのである

それは単なる見かけでも幻想でもなく、それ自身に成ることに成功していないものである

ヘーゲルはこのプラトンとアリストテレスの自然観を受け入れる