2021年10月31日日曜日
10月を振り返って
2021年10月30日土曜日
コンシュ「形而上学の概要」(5)
2021年10月28日木曜日
コンシュ「形而上学の概要」(4)
2021年10月27日水曜日
コンシュ「形而上学の概要」(3)
2021年10月26日火曜日
コンシュ「形而上学の概要」(2)
彼は、形而上学を単に自然についてアプリオリに知ることができるものと理解して、形而上学における貧しさに誓いを立てている。
それによって彼は、本来は形而上学の空間を空虚にし、そうすることにより、その空間を信仰のために確保できたのである。
神を信ずる者にとって、神、世界、人間が現実の全体である。
全体性の言説としての形而上学は、科学ではあり得ない。
カント自身が、そのことを十分に示している。
そうでなければ、宗教が証明あるいは論駁され得ることは明らかである。
ただ、伝統的な意味での形而上学が科学ではあり得ないことは、全体性についての理性的な言説を放棄しなければならないことを意味していない。
「理性的な言説」という言葉は「一貫性のある言説」と理解しなければならない。
しかし、「一貫性」を語る人が必ずしも「真理」を語るわけではない。
2021年10月25日月曜日
コンシュ「形而上学の概要」(1)
今日も気持ちの良い朝となっている
午後には久し振りに投票に行ってきたが、会場が混んでいたので驚いた
さて、コンシュさんの『形而上学』の続きを見ると、第3章が「形而上学の概要」となっている
興味をそそられるので、もう少し読み進むことにしたい
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もし「自然主義」という言葉をスピノザの哲学に適用するのなら、わたしの哲学も一種の自然主義――すなわち、自然(Phusis)がすべての「もの・こと」のアルファでありオメガである現実の概念――であると言うだろう。
多くの点でスピノザとわたしは違っている。
(形而上学が証明可能であり得るとか、真理を説明する方法としてユークリッドの枠組みが適しているとか。
もし自然が無限の側面を覆い隠しているとすれば、我々知っているのは二つだけだろう。
魂と体の間には類似性がある。
「意志」という言葉は空疎な言葉である。
知恵とは「死ではなく、生について」瞑想することである。――なぜなら、二つの対立するものは不可分だからである。――
悦びだけがよいことである。
道徳は倫理と混同されている。
倫理と政治は形而上学と結び付いている、ということなどである)。
主には、これである。
わたしから見れば、それは欲求ではなく、人間の本質である自由である。
人間は自然の創造である。
我々は、自然の中における自由な存在の誕生が理解できるように、自然を捉えなければならない。
これが、わたしが大雑把に「唯物論者」ではなく「自然主義者」だと言うところのわたしの哲学の本質的な特徴である。
2021年10月24日日曜日
意識の深度の個人史
2021年10月23日土曜日
コンシュ「哲学者になる」(8)
デカルトは無限の「概念」について語る。
しかし、そこで取り上げられていることは、単に一つの「概念」ではない。
人間は、自然の外にいて天使のようにその上を飛んでいるのではないことを知り、常にそう感じている。
力から見れば、すぐにでも人間を消滅させることができる根本的な依存状態にあることを人間は感じている。
パスカルに戻ってみよう。
「人間は自然の中で最も弱い葦にしか過ぎない。しかしそれは考える葦である。宇宙全体がそれを押し潰すために武装する必要はない。人間を殺すためには、蒸気や一滴の水で十分なのだ。しかし、宇宙が人間を押し潰したとしても、人間は人間を殺すものより高貴だろう。なぜなら、人間は自分が死ぬことや宇宙が自分に対して持っている優位性を知っているが、宇宙は何も知らないからである」(Br. 断片347)。
我々はそのことを分かっている。
それは神の問題ではなく、人間そのものよりも「高貴」ではない力の問題である。
なぜなら、自分のしていることを知らない(理由なく我々を「殺す」)盲目の存在だからである。
人間を押し潰すもの。
それは、すべての有限な存在が人間のように、それ自体は有限の存在ではない根本的な依存状態にある非人格的な力。
なぜなら、この場合、それもまた依存しており、従って無限である。
主体の哲学は、人間の実際の存在の抽象化を行う。
哲学者は、単なる「主体」ではなく、人間を感じなければならない。
自分が自然の一部――自然の中の考える部分――であると感じなければならない。
兎に角、実際の哲学が始まるのはここである。
しかし、それは始まりにしか過ぎない。
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今日のポイントは、自分が自然の一部を構成する考える存在であることを感じることから哲学が始まるということであった
この点に関しては、わたしの中に出来上がっていると感じている
これで第1章「哲学者になる」が終わりになった
哲学者はそこからどのように歩むのだろうか
もう少し読み進みたい気分でもある
2021年10月22日金曜日
コンシュ「哲学者になる」(7)
2021年10月21日木曜日
コンシュ「哲学者になる」(6)
2021年10月20日水曜日
過去を解きほぐすこと、それがこれからのプロジェ
最近は荷物整理の日課が少なくなり、やや物足りなさを感じている
荷物到着から3カ月が経過し、かなり片付いてきた
来月初めには一応の終わりを迎える目途が立った
当初は荷物が収まるかどうか心配していたのだが、想像以上のスペースを確保できることが見えてきた
狭いながらも仕事用の場所もセットアップでき、先週あたりから毎日のように顔を出している
昼間から仕事の場所を探す必要がなくなり、しかもこれまでにないほどの集中が可能になっている
新しい展開があるのではないかという期待さえ浮かんでくる
暫くの間、様子を見ることになるだろう
ここ十数年を今の時点から振り返ると、過去を蓄積する時間だったように見える
未来は存在しない
それがあると思うのは淡い期待でしかない
在るのは過去である
過去を現在に蘇らせ生かすことが、未来を浮かび上がらせる唯一の手段だろう
わたしの横には、意識的に過ごした十数年に亘る「全的生活」の蓄積がある
それを解きほぐすことが、これからのプロジェであると考えるようになっている
そのための空間が今準備されつつあるように感じている
この落ち着いた気分は、その状態を反映しているのだろうか
2021年10月19日火曜日
コンシュ「哲学者になる」(5)
2021年10月18日月曜日
コンシュ「哲学者になる」(4)
2021年10月17日日曜日
コンシュ「哲学者になる」(3)
「意識の第三層」、あるいはパスカルの「気晴らし」(2016.7.9)
2021年10月16日土曜日
コンシュ「哲学者になる」(2)
2021年10月15日金曜日
コンシュ「哲学者になる」(1)
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人間が携わっている大抵の活動は些細なことである。
なぜなら、彼らは自分自身の状態や人間とは何かということを探求する人間としてではなく、何らかの仕事を持ち、社会で何らかの役割を演じるという活動に従事しているからである。
そのことにより、彼らはこの社会をまさに存在せしめている。
従って、もし哲学者になることが自分自身に還ることであるとすれば、それはある意味で、社会から自らを引き離し、孤独を選ぶことになるだろう。
つまり、試験の準備をする哲学教師はいるが、哲学者というものは実質的には何の役にも立たず、決まった役割も持っていないのである。
それは、哲学というものが社会的な要求には何も答えないことを意味している。
人間の問題、すなわち「もの・こと」の全体における人間の意味の問題は、政治的決定や政策の意味、あるいは歴史の意味とは何の関係もないのである。
この問題は如何なる社会においても等しく存在する。
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外形的に見ると、わたしはコンシュさんのイメージする哲学者に近づいていることが分かる
その中身はどのようなものなのだろうか
明日以降に期待したい
2021年10月14日木曜日
コンシュ『形而上学』のプロローグ(4)
2021年10月13日水曜日
コンシュ『形而上学』のプロローグ(3)
2021年10月12日火曜日
コンシュ『形而上学』のプロローグ(2)
2021年10月11日月曜日
コンシュ『形而上学』のプロローグ(1)
2021年10月10日日曜日
荷物整理で、この十数年を味わい直す
2021年10月9日土曜日
コンシュ『形而上学』の緒言(4)
哲学的感情、あるいは世界の全体をどこに見るのか(2016.2.13)
2021年10月8日金曜日
コンシュ『形而上学』の緒言(3)
(23)道徳は意見の問題ではない。それは対話という単純な事実とそれが包含するものに基づいている、すなわち道徳は、対話においてすべての人間が対話者を対等であると認めることから正当化されるのである(『道徳の基盤』、PUF)。
(24)我々の時代が持っている形において、すべての人がすべての人を助ける義務としての道徳的義務は、世界内存在(Dasein)の本質的特徴で、それは今日の我々のものである(『愛と他の主題の解析』、第2章、PUF)。
(25)道徳は一つだが、倫理は複数ある。道徳は無条件の義務という概念を含むが、倫理はそれぞれの自由な選択に属している。
(26)幸福の倫理(幸せであるために生きること)は、可能な倫理の一つにしか過ぎない。
(27)人間が「真に」存在する在り方はいくつもある。その存在の真実において、人間は自己原因(causa sui)である(『明日のためにどんな哲学?』第4章、§3、PUF)。
(28)知恵は形而上学と整合性のある倫理である。
(29)悦びにも幸福にも導かない悲劇的な知恵は、可能な最大の価値を、長くは続かないにもかかわらず生命と作品(仕事)に与えることを狙っている(『哲学的オリエンテーション』、第7章、PUF)。
(30)人間にとって、自分が持った生以外の生は存在しない。
(31)我々は不確実さの中を進む。未来は短期的なことを超えては予知できない。
(32)幸福が、その性質上、期待されることも望まれることもなくやって来る時、賢者はそれを感謝の気持ちで受け入れる。
(33)戦争は、子供は理解できないという理由で行われ、他方、すべての戦争は無垢の人が初めて殺されたところで不正義になるので、賢者は如何なる戦争にも参加しない。しかし、彼は「侵略者に抵抗してはいけない」とは言わないのである。
(34)生命の意味は、我々の後に来る人達への愛である。
(35)作品(仕事)の意味は、この愛の中にある。
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これがコンシュさんの哲学の35のエッセンスである
この中でわたしに訴えかけてきたのは、最大の価値を生命と作品(仕事)に与えよ、という悲劇的な知恵であった
そして、生命の意味を後に続く人たちへの愛の中に、作品(仕事)の意味をその愛の中に見る
しかしそれは悦びにも幸福にも導かないという意味で悲劇的というのだろうか
もう少し考えてみたい
2021年10月7日木曜日
コンシュ『形而上学』の緒言(2)
2021年10月6日水曜日
コンシュ『形而上学』の緒言(1)
2021年10月4日月曜日
時間は思索を深めるか
2021年10月3日日曜日
紫煙の効果
2021年10月2日土曜日
コンシュ「哲学とその向こう側」(17)
最初の人間の記憶はない
その後に来る人の記憶もない
後から来る人においてもその記憶はないのである