2022年12月30日金曜日
12月を振り返って
2022年12月29日木曜日
コリングウッドによる自然(73): 現代の自然観(15)新しい物質論(4)
Albert Michelson (1852-1931)
この後、大きな物質とエーテルの二元論を再考する必要が殆どなくなった
なぜなら、各瞬間において同一な物体から構成され、内在的な延長と質量を持つ物質が消えたからである
エーテルも、マイケルソン=モーリーの実験により消えることになった
この実験は、光が静止した媒体の中を伝達する乱れではないことを最終的に証明したのである
しかし、古い二元論の奇妙な遺物は、現代物理学の中に未だに生きている
光線だけではなくすべての電子は不思議にも、曖昧に行動することを現代の物理学者が証明した
時には粒子のように、時には波動のように動くのである
次に問われるのは、本当はどちらなのかということである
両方であるということは殆どあり得ない
なぜなら、もし電子が粒子ならば波動のようには振舞えないし、波動であれば時に粒子として振舞えないからである
そこで、ある物理学者は自らの心の状態をこう表現した
月水金には粒子説を信じ、火木土には波動説を信じている、と
粒子説は古典的な物理学の大きな物質という考えの幻影であり、波動説はエーテルという考えの幻影であることが明確になる
考えが死んだ時、幻影は歩き出すが、永遠にではない
現代の物質論では、電子は粒子ではあり得ない
なぜなら、粒子とはそれが成すこととは関係なく在る物質のことだからである
また、電子は波動でもない
波動というのは弾力性ある媒体における乱れのことで、その媒体は乱されていることとは関係なく、延長と弾力性を持つものだからである
2022年12月28日水曜日
コリングウッドによる自然(72): 現代の自然観(14)新しい物質論(3)
古い見方は変化を取り出して、ある瞬間の自然の全実在を考えることを可能にする。ニュートン(1642-1727)の見方によれば、そこで省かれたものは近接する瞬間における空間内での物質の分布の変化であった。しかしそのような変化は、ある瞬間における宇宙の本質的実在とは無関係なものとされたのである。移動は偶然であり、本質的ではなかった。同様に本質的なのは、持久であった。・・・現代的な見方では、過程や活動や変化は事実の本質なのである。ある瞬間には何も存在しない。各瞬間は事実を集める方法に過ぎない。従って、単純な根本的範疇とされる瞬間はないので、ある瞬間には自然は存在しないことになる。
2022年12月27日火曜日
2022年を振り返って
2022年12月26日月曜日
コリングウッドによる自然(71): 現代の自然観(13)新しい物質論(2)
2022年12月25日日曜日
コリングウッドによる自然(70): 現代の自然観(12)新しい物質論(1)
現代物理学は、困難なことはあるにせよ、これらの問題を除くために少なくとも何かはやってきた
最後の問題を最初に持ってくるとすれば、化学と物理学との論争は電子理論によって落ち着いた
この理論によれば、原子は究極の粒子ではなく電子の集合なので、一揃えの化学的特徴を持つ原子は、一つの電子をそこから蹴り出すことにより、別の特徴を持つ原子になる
従って我々は、一つの物理的単位である電子に戻る
また、原子の単なる量的側面(原子の重さ)に依存するのではなく、原子を構成する電子のパターンに依存する化学的性質という新しい概念を手に入れるのである
このパターンは静的ではなく動的で、常に一定の律動で変化している
これは丁度、音響学においてピタゴラス学派が発見したリズミカルなパターンのようである
量と質を結ぶものとしてのリズミカルなパターンというこの考えは、現代の自然理論において重要である
それは単にそれまで別々にあった概念を結び付けるだけではなく、さらに重要なのは、時間の概念の新しい意義を明らかにしたからである
もし水素原子が水素の特徴を持つのは、一定数の電子を持ち一定の配列をしているからではなくなく、一定のリズミで運動しているからだとすれば、ある瞬間において原子はその特徴を全く持っていないことになる
リズミカルな運動ができるようになる時間の広がりの中でだけ、原子はその特徴を持つのである
もちろん、ある瞬間には存在せず、時間の広がりの中でだけ存在するものがあることは知られていた
運動が最も明白な例である
一瞬を取れば、動いている身体と静止している身体に違いはない
生命も同様である
生きている物体と死んでいる物体を分けるものは、生きている動物ではリズミカルな過程と変化が進行していることである
従って、生命は運動と同様、瞬間には存在せず、時間が掛かるものだということになる
アリストテレス(384 BC-322 BC)は、同じことが道徳的性質についても言えることを示した
例えば幸福だが、一生の間その人に属している場合にかぎりその人のものなので、心的状態を一瞬だけ見ても彼が幸福かどうかは分からない
それは丁度、写真を見てもその動物が生きているのか死んでいるのか分からないのと同じである
現代物理学の出現以前には、運動とは物体に起こる事故のようなもので、それによって物体の性質は変わらないと理解されていた
原子を運動する電子パターンとして捉えるこの新しい理論は、この理解を完全に変えてしまった
それだけではなく、時間が関与するという意味で、物質の化学的性質を精神の道徳的質あるいは有機体の生命に関する性質と類似のものとしたのである
それ以降、倫理学において人間が在ることと人間がすることを分けられず、生物学において有機体が存在することと有機体がすることを分けられないのと同様、物理学においても物質があることと物質がすることを分離できなくなったのである
これを分離することは、古典物理学の礎石であった
それは、運動を外から物体に加えられたものと捉え、物質界の写真がその全性質を明かにすると信じる世界であった
2022年12月24日土曜日
深みに向かうステージに入っているのか
今日は身も心も軽くして、これからに向けての大きな枠組みについて考えを巡らせていた
これまでの思考の傾向は、改めてどこか新しいところを探るというところがあった
このところ現れている特徴は、最終的には新しいところに導くのだろうが、その入り口はつい最近通り過ぎたものの中にあるのではないかという考えになるだろうか
大きな原因はカフェ/フォーラムでの経験があるように感じている
これまでのカフェでは毎回、前回とは直接には関係のないテーマを選んでいた
ところが、秋に再開したサイファイ・フォーラムFPSSでシリーズ「科学と哲学」を始めることになった
このようなシリーズにおいては、前回との関連の中で次を考えることになる
前回のものはどこかに置いて新しいところに入るという思考(志向)とは違うものにならざるを得なくなる
前回との繋がりで考えるというやり方は自ずから、あるテーマについての深まりを見せることになると予想される
カフェ/フォーラムについては10年という節目を迎えている
それから、これまでの歩みを『免疫学者のパリ心景』と来春には世に出ると思われる免疫に関する思索の書として纏めることができたことも1つの節目になるだろう
最近の思考の傾向は、これからが深みに向かうべき段階に入っていることを意味しているのかもしれない
2022年12月23日金曜日
コリングウッドによる自然(69): 現代の自然観(11)現代物理学(4)
2022年12月22日木曜日
コリングウッドによる自然(68): 現代の自然観(10)現代物理学(3)
2022年12月21日水曜日
静穏の中の年の瀬
2022年12月20日火曜日
コリングウッドによる自然(67): 現代の自然観(9)現代物理学(2)
引力が物質にとって生得であり、内在的で本質的であるべきなので、一つの物体がもう一つの離れたところにある物体に何の仲介もなしに作用するということは、わたしには全くの不可解なことなので、哲学的問題において思考力のある人であればそんな考えに陥るとは到底信じられないのである
2022年12月19日月曜日
コリングウッドによる自然(66): 現代の自然観(8)現代物理学(1)
2022年12月18日日曜日
雪見の紫煙
2022年12月17日土曜日
コリングウッドによる自然(65): 現代の自然観(7)ベルクソン(4)
ベルクソン(1859-1941)の生気論に関わるこのような不均衡と矛盾の感覚があるので、我々は彼の基本的な概念を詳しく調べなければならない
自然の有機体と自然の法則の両方を創造する働きをし、直観的に知識を求めると同時に知的に行動する精神を有機体に付与する生命力は、その外にもそれ以前にも何もない力である
しかしそれは、いろいろなやり方でそれ自身を分化させ組織化する
異なる方向に分枝、発展し、この方向では成功し、別の方法では失敗する
ここでは停滞に陥り、あそこでは中断されない勢いで流れていくと言った具合である
つまり、この活動の詳細な記述を通して、彼はこの活動を恰も岩や山の間を流れる川として捉え、岩や山は川の運動自体を決定しないが、分枝や多様化は決定していると考えていた
これは、閉塞や分枝の原因は生命力そのものに内在するのか、この原因は生命ではない何かなのかのどちらかを意味している
最初の選択肢は、ベルクソンの純粋な活動としての生命という概念によって除外される
それゆえ、第二の選択肢のそれ自身で実在する何か、生命の流れの障害としての原因を考えなければならなくなる
ここで再び、生命が役割を演じる舞台としての物質という観念に戻ってくる
これはベルクソンの宇宙論の悪循環である
彼は表面上、生命の副産物として物質を見做していたが、物質を前提とすることなくどのようにして副産物が現れるのか説明できなかったのである
この結論は、ベルクソンの認識論にとって致命的である
宇宙論として見たベルクソン哲学の問題は、彼が生命を真剣に考えたことではなく、それ以外を真剣に考えなかったことである
生命という概念は、世界の一般的な性質にとって最も重要なカギになる一つであるが、全体としての世界の十分な定義にはならない
物理学者の無生物の世界は、ベルクソンの形而上学にとって重荷である
それに対して、彼の生命プロセスの中で消化する以外に彼にできることは何もないからである
そして、それは消化し得ないものであることが明らかになったのである
しかし、彼が生命に注意を集中することにより成し遂げた自然理論の進展は否定できない
我々はベルクソンの仕事を無視することはできない
我々がやるべきことは、彼が解決できなかった生命のない物質という概念について再考することである
2022年12月16日金曜日
コリングウッドによる自然(64): 現代の自然観(6)ベルクソン(3)
2022年12月15日木曜日
コリングウッドによる自然(63): 現代の自然観(5)ベルクソン(2)
すでに見たように、生命とはまず何よりも人間の精神を生み出す力であり過程である
それに対する物質とは、それを操作するために精神が現実を考える1つのやり方であるが、この現実は生命そのものである
生命と物質はいかなる意味においても対峙するものなので、生命は物質ではあり得ない
つまり、物質は行動のために有用で必要な知性の産物であり、真なるものではない
従って、物質はベルクソンの宇宙論からは排除され、生命の過程とその産物だけから成る世界が残されたのである
この過程が「創造的進化」とされるものである
作用因なるものは、物質の架空の世界に属するとされて、この過程から追放される
作用因に従って動くものは、単に引っ張られたり押されたりしているだけだが、生命はそこに内在する「エラン・ヴィタル」に従い、それ自身で動くのである
同時に目的因も追放される
なぜなら、目的因の場合、終わりが前もって決められており、その過程の創造性や自発性が否定されるからである
ベルクソンは目的論を逆さまになったメカニズムだと言った
世界の過程は、壮大な即興演奏である
生命の力は、いかなる目的もゴールもその外の導きの光も内なる導きの原理もない
それは、内在する性質が流れることであり、どんな方向にもいつまでも推し進める単なる力である
物質的なものはこの宇宙的な運動の前提ではなく、その産物である
自然の法則はその過程を導く法則ではなく、一時的に採用する輪郭に過ぎない
延長から成る感覚器により感受可能な(perceptible)世界と、その振舞を支配している変わることのない理解可能(intelligible)な法則という古い区別
つまり、古代ギリシアの感受可能な世界と精神による理解が可能な世界との区別が、両者とも進化という過程に組み込まれることにより否定されたのである
進化の過程は、変化するものと、その変化のやはり変化する法則を一度に生み出すのである
2022年12月14日水曜日
コリングウッドによる自然(62): 現代の自然観(4)ベルクソン(1)
2022年12月13日火曜日
コリングウッドによる自然(61): 現代の自然観(3)生命という概念(3)
2022年12月12日月曜日
コリングウッドによる自然(60): 現代の自然観(2)生命という概念(2)
2022年12月11日日曜日
穐吉敏子さんとの何度目かの遭遇
2022年12月10日土曜日
コリングウッドによる自然(59): 現代の自然観(1)生命という概念(1)
2022年12月9日金曜日
コリングウッドによる自然(58): ヘーゲル(13)
2022年12月8日木曜日
コリングウッドによる自然(57): ヘーゲル(12)
2022年12月7日水曜日
コリングウッドによる自然(56): ヘーゲル(11)
2022年12月6日火曜日
コリングウッドによる自然(55): ヘーゲル(10)
2022年12月5日月曜日
コリングウッドによる自然(54): ヘーゲル(9)
2022年12月4日日曜日
コリングウッドによる自然(53): ヘーゲル(8)
2022年12月3日土曜日
Youtube Music からのまとめ
2022年12月2日金曜日
ゲオルク・ジンメルの言葉
今日は、ゲオルク・ジンメル(1858-1918)の言葉から
高い精神的な関心に生きることは、老人になった時の耐えがたい退屈と生活の倦怠とに対して私たちを守り得る唯一のものである。何によらず、低いもの、日常的なもの、感覚的なものは、何十年も繰り返していると、甚だ索漠たるものになってしまうからである。真に精神から生れ、精神に生きることは、その直接の質的な価値を全く離れても、変転及び無尽という価値を持っている。精神的な事柄に素質のある高い人間でも、永い年月を低い領域に過ごすことがある――しかし、やがて、その単調に気づき、外面的なものや感覚的なものの根本にある驚くべき変化の乏しさに気づく。それを知ると、彼は絶望に陥らずにいられないが、永らえて、なお絶望を防いでくれるのは、真に精神的な人間の内部の測るべからざる内容と自ら生じ来る不断の変遷とだけである。
(清水幾太郎訳)